夜間中学その日その日 (1064) 髙野雅夫
- journalistworld0
- 12月13日
- 読了時間: 6分
髙野雅夫さんと語る連続講座 (その2)
テーマ「大阪での夜間中学開設運動とその教訓」
2025.12.13
71回全国夜間中学校研究大会(2025/12/5~6)でも分科会発表や、全体会発表「東大阪からの発信」でも髙野さんが行った夜間中学開設運動を取り上げ報告があった。が、一方では大会資料に収録された各夜間中学で執筆された「あゆみ」を見ても、当然記述されてしかるべき事項が書かれていない。一例をあげると、東京荒川九中夜間中学が学校全員で製作に取り組んだ証言映画「夜間中学生」の記述。そして、東京・江戸川区で取り組まれた夜間中学開設の市民運動と小松川二中夜間中学の開校に伴い、東京の夜間中学など6校の小中学校に新たに併設された「日本語学級」の記述がないことだ。このことは生前、髙野さんも何度も指摘していたが今回も訂正がなされていない。個々の夜間中学の問題のみならず、全国夜間中学校研究会の姿勢が問われていることではないだろうか。
今大会で東大阪市立布施・意岐部(おきべ)夜間中学がとりくまれた「東大阪からの発信」は自分たちが学ぶ夜間中学のあゆみを学習に取り入れ、うまれた発表だと考える。このことを大切にしないと、骨抜きにされ、夜間中学が変質させられてしまうことになるのではないかと危惧する。
もう一点は大阪市が強行した天王寺・文の里夜間中学統廃合について、天王寺夜間中学の再開に論究されたのは2日目、全体会議前にあった、国会議員のスピーチでしかなかったのではないか。この視点で大会資料集を読み進めたい。
髙野さんは2012年7月開催の連続講座で「大阪での夜間中学開設運動とその教訓」として私たちに次のように語っている。 (編集部)
髙野:こんにちは。まず最初にこの前たくさん来ていただいたのに、天王寺の教頭さんが、同窓会に本を売っちゃダメだって言われたことが中心になってしまって、ちゃんと報告出来なかったことを皆さんにお詫びしたいと思います。これからこのテーマに沿って是非皆さんにお伝えしたいことを、なんかもうかしこまった話じゃなくて何かざっくばらんに、夜間中学の井戸端会議みたいに本音を聞ければ有難いと思います。もう72歳になりまして、頭もそろそろボケ始めて認知症の気が表れて、もう今年が限界なんで皆さんとお話できるのはこれが最後だと思っています。よろしくお願 いします。

夜間中学の生命線を握っているのは教師だ!
えっとですねえ、その前に京都のことをちょっとお伝えしたい。何故京都のことをお伝えしたいかというと、夜間中学の主役は生徒なんだけど生命線を握ってるのは教師だということが、京都の夜間中学統廃合の中で鮮明にされているんです。当時あの68年に駅前の皆山中学と西陣の嘉楽中学と、京阪の藤森、被差別部落に3校あった夜間中学が廃止され定時制高校や通信教育に変えられるって新聞記事が出たんです。その時にちょうど京都を回ってて3校の夜間中学の先生たちに、何故京都が統廃合されるのか教えてほしいっていうふうに毎日通って申し入れたんですけど、忙しいとか言われてそれで東京から塚原雄太先生も来て二人して学校の授業が終わるのを待ってて歩きながらでもいいから話を聞かせてほしいと申し入れた時に、ほとんど当時の夜間中学の教師から断られました。何故だと思います?当時の夜間中学の先生はほとんどお坊さんでした。だから、夜間中学にいれば昼間檀家回りをしてお布施を稼いだりして、夜間中学の教師が続けられる。だから京都にだいたい14,5校あった夜間中学がどんどん統廃合される中で、自分がいかにしたら夜間中学に残れるかというそういうことで皆校長とか教育委員会の方に顔が向いていたんです。だから3校が統廃合されて通信教育になるのかなんかわからないんだけど、そういう状況の中で俺たちが廃止をどうやって食い止めるのか聞きたいって言っても、ほとんど相手にされませんでした。
その結果的には、中田直福祉課長(後の京都会館館長)のところへ、僕が怒鳴り込んで行って、京都の通信教育にするっていうけど答え以前に、通信教育の問題すら読めない生徒をどうするんだって食って掛かった。しかし、統廃合されて四条大宮の郁文中学が残って、それが今の今度名前が変わって洛友中学になるんです。だからそれ以来、生命線を握ってるのは教師なんだという、こだわりがずっとあります。
京都がだいたい通信教育が撤回されて統廃合は郁文にだいたい決まりそうになった時に、廃止反対で守るという形では夜間中学は守れないんではないかと思いました。
荒川九中一校は最後に残るかもしれないけどやがて、夜間中学は廃止される。その時に大阪市内に夜間中学がなかったんで、何としても大阪市に造りたいということで、すぐ京都が5月に終わって引き上げてすぐ大阪に来るはずだったんですけど、その時に京都では、夜間中学を回って夜、食堂を探すが見つからない。お店が皆閉っちゃって食べるところがないんです。そうする中で、栄養失調で、大阪・松原市の教研集会にに呼ばれて、喋ってる時に意識不明で倒れちゃった。もっと早く大阪に来たかったんですが、体調を取り戻していて遅くなりました。
大阪市教育委員会とか大阪府教育委員会に行っても大阪は同和教育や人権教育や民族教育やってるからそんな人は一人もいませんって。「大事な税金を使うんだから夜間中学を創れ創れって言わるが、髙野さんは東京から来た人でしょ」って言われました。
それで、小六法とそれから卒業記念にもらった辞書を片手に赤線引っ張りながら、俺も当時170円の釜ヶ崎のドヤに泊まって、大阪で安い飯食って、市バスに乗ってき来てるんだからその中に税金があるだろう、税金の分だけ俺に喋らせろって言って毎日毎日、教育委員会に通っていました。
その時に思ったのは大阪市内に200万人当時住んでるっていうことを聞いて、大阪市内で200万枚ビラを撒いたら必ず仲間たちが名乗り出てくれることを信じて毎日毎日大阪市と教育委員会に行きながら心斎橋とか梅田とか歩道橋とか、いろんなところでビラをまき続け、可能な限り生き証人を探すことに専念しました。
さっき話されていた、桂米朝が司会してた「はい土曜日です」の関西テレビの放送ですが、その時にちょうど関西で初めて神戸で第15回全国夜間中学研究大会が開かれた。それで神戸の丸山中学西野分校の末吉先生が二人の生徒を連れて参加して、東京から塚原雄太と俺らが参加して、その放送中に小林晃のお母さんから電話があって、番組が終わってすぐ駆けつけた。だから大阪のやっぱり夜間中学の歴史を切り拓いたのは、髙野雅夫ではなくて小林晃をはじめ神部博之、八木秀夫、生徒が切り拓いてきた歴史だと思ってるんですよ。
その第一ラウンドの歴史がやがて「夜間中学を育てる会」とか、それから太平寺の分教室独立を勝ち取っていった歴史を考えると、俺たちはそれが、夜間中学の生命線だと思ってるんですよ。それはね、どんな社会になってもどんな時代になっても俺たちゃあ普遍だっていうふうに思っているんです。
なぜならば「国連識字の10年」で明らかにされたように、世界に10億の仲間たちがいるわけです。その中の8億はアジアの仲間たち、だからその原点はやっぱりアジアにも世界にも通じるし、その生命線を抜きにして俺たちは夜間中学は語れないし、そういう歴史を切り拓いた、小林晃や神部博之や八木秀夫は、ほとんどの夜間中学の歴史の中からもさえ消されている。自殺したり野垂れ死にしたり、病死したりするそういう彼らの口惜しさを思うと、どうしても原点と生命線にこだわらざるを得ないっていうか、だけどそれもそろそろ年貢の納め時が来てるんだなって今の現実の中では思い知らされているのが本音です。


























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