夜間中学その日その日 (720)
- 砦編集委員会
- 2020年11月19日
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大阪市立天王寺につづき菅南(かんなん)夜間中学が2020年、開設50年を迎えた。2022年は殿馬場・八尾・長栄の夜間中学が50年を迎える。設立時と違う校名の学校になったところもあるが、設立時に想いを馳せ、夜間中学の今を考えみたい。
「開設50年を迎えた菅南(現・天満)夜間中学」
菅南夜間中学(大阪市立菅南中学校夜間学級)は1970年4月8日、入学式を迎えた。この日の夕刻、天六ガス爆発事故が起った。この事故に遭遇した入学生もあったかもしれない。「62歳の一年生も、新設の菅南中で入学式」(1970.04.09毎日新聞)。生徒79名(男35、女44名)。大阪市内51名、府下26名、尼崎1名(合計数は一致しないが)、大阪府内在住在勤の入学条件により、兵庫県からの入学生もあった。
菅南夜間中学の開設の経緯(*)である。「北大阪にも“夜間中学”大阪市教委 募集要項決める」(1969年11月28日OO新聞)に次のような記載がある。「大阪市教委はさる6月5日に新設した天王寺中学校夜間学級が好評で、入学希望者が絶えないところから府教委と対策を検討していたが、27日、北大阪の市立中学校に、あたらしく夜間中学校を設立することになり、募集要項を発表した」「居住地の関係から市内北部の中学校にもという希望者が多く、天王寺中にはいれなかった人もいるので新設することになった。どこの中学校に併設するかは応募者数をつかんだうえで12月中に決める」。と学校名は明記していない。謄写版で印刷した「夜間中学 No.2」(発行人:髙野雅夫 1969年12月1日発行)には「来年度大阪市内北部(大阪駅周辺)に1校設置決定。大阪府下(東大阪市候補地)に1校検討中」の記述がある。

この時点で学校名が明らかになっていない形で、募集を始める事情があったのかと想像できるが、菅南中学(昼)は天満の天神(菅公)さんの南にある場所(北区菅原町)から、現在地に1968年新築移転してきた。新築3年目に夜間中学を併設した。校舎建設の委員長を務めた、同窓会長は市の予算は限られ、それではと地元に寄付を呼びかけ、募金は思わぬ多額が集まり、施設の整ったモデル校ができたと述べている。そして「(夜間中学生は)感謝の気持ちが行動に現れ、昼の生徒にも教室、廊下の清掃から整頓と無言の手本を示されました」と記し、夜間中学を併設したことを評価されている(文集 「ともしび」第25号 1994.11.15)。
専任教諭7、養護教諭1、事務職員1。兼任校長、教頭、校務員各1名で出発した。6月9日には生徒会が発足。6月14日にはその後の増設運動の原動力となる「夜間中学を育てる会」が発足、活動が始まった。「在校生も卒業生も教職員も加わり夜間中学の条件整備、増設要求を府教委に訴えていった」。
開設時の桑島校長は1年を終え、「昨年4月8日、大阪市における第2番目の夜間中学として発足した本校夜間学級は、無我夢中で1年を過ごした。わからぬことばかりで、とにかく、教師も生徒も裸になってぶつかり合い学びあう毎日であったが、それだけにいつわりやごまかしの許されない真剣勝負の連続だった。長くて短い1年だったが、火花の散る厳しさの中に師弟一如全体一体の和やかで人間味豊かな校風をきずき得たと自負している」と記している(「キケ人や」)。
1995年4月、菅南中学は隣接する扇町中学と統合、天満中学校と名前を変え、夜間学級も新たな歩みを始めた。
菅南夜間中学の講堂で500人は集まったであろう集会「夜間中学開設25年、さらに増設を‼ 髙野雅夫さん人権賞と出版を祝って」(1994.12.4)を開催できたことは忘れられない。
(*)大阪市議会・決算特別委員会(1969.11.19)で教育委員会中畔指導部長 「(天王寺夜間中学は)6学級の130名になっております。なお2学期、9月になってからさらに入りたいという者が50名ばかりまいりましたが、これはいろいろと学校の実情を説明いたしましたところ来年度まで待つというようなことも申しておりますので、われわれとしても現在の130名、6学級が天王寺中学としては限度でございますので、さらに大阪市内の中でもう1校設置するために現在鋭意検討を進めております」と答弁している。校名は明らかにしていない。
(文責 夜間中学卒業者の会事務局)