夜間中学その日その日 (1077)号外 夜間中学資料情報室
- 2 日前
- 読了時間: 5分
朝日新聞デジタル版 2026.2.21 神戸学院大学 髙野雅夫夜間中学資料室の紹介の報道があった。追って紙面掲載があると思います。度紹介します。写真がアップできません、ご了解ください。(編集部)
元夜間中学生が残した4トン車満杯の資料 永山則夫元死刑囚の手紙も
朝日新聞2026年2月21日 7時00分
永田豊隆
さまざまな事情で義務教育を受けられなかった人たちが学ぶ夜間中学。その歴史を示す膨大な資料が、神戸学院大学(神戸市西区)で整理が進んでいる。

夜間中学出身で、自らその意義を訴えた故髙野雅夫さんが60年以上かけて収集したガリ版刷りのレジュメやフィルムなどで、19歳の時にピストルで4人を殺害した永山則夫・元死刑囚(1997年死刑執行)からの手紙もある。
写真 大阪府庁前の髙野雅夫
校舎の一角にある2部屋。同大名誉教授(史料学)の水本浩典さん(76)は、天井近くまで積まれた資料を見上げて感嘆する。
「貴重な研究資料がこれほど大量に残っているとは」
中身のインデックスを記した箱がある一方、長く開けられた形跡のない古びた段ボール箱もある。年齢も国籍も様々な生徒たちが学んだ記録が詰まっている。
2014年、当時東京に住んでいた髙野さんが知人の元夜間中学教員白井善吾さん(79)=大阪府吹田市=に「大阪で預かってほしい」と依頼した。理由は言わなかったという。
1本の電話により、大阪に送られてきた夜間中学の資料。それは量の多さも中身の貴重さも予想を超えており、学生も巻き込んで整理が始まりました。
白井さんが元勤務先の同府守口市の夜間中学に送るよう伝えると、断続的に段ボール箱が送られてきて60箱を超える量になった。
白井さんは「はじめは10箱程度かと思っていた。都営住宅に住んでいた髙野さんがどうやって保管していたのか」と不思議がる。
写真 髙野雅夫夜間中学資料室 資料室内
15年には、髙野さん自ら大阪府内に移り住んだ。1960年代に夜間中学開設運動に取り組んだ地に、思い入れがあったようだ。
資料はその後、東大阪市内の夜間中学をへて、2018年春、水本さんの働きかけで神戸学院大で引き取ることになった。髙野さんが持ち込んだ資料はさらに増え、4トントラックいっぱいの量が運ばれてきたという。
水本さんのゼミの学生らも参加して整理、分類を始めたところ、今では入手できない貴重な資料がいくつもみつかった。
「新たなる署名をお願い」元死刑囚が協力を要請
全国の夜間中学教員らが集まる研究大会の資料が1964年度分からすべて保存され、各地の教員が読み書きや算数を教えた授業や学校活動の実践記録が残されていた。ほかにも、10代からお年寄りまで様々な生徒たちが日常をつづった作文なども多数あった。
髙野さんは約60年前、夜間中学の存続・開設を訴えて全国を巡りながら、「わらじ通信」と題したはがきを母校の東京都荒川区の夜間中学に送り続けた。細かい字でびっしりとつづられたはがきには、大阪・釜ケ崎の簡易宿泊所、教育委員会との「学ぶ権利」をめぐる激しいやり取りなどが書かれている。
髙野さん製作のドキュメンタリー映画の元になったとみられる16ミリフィルムや音声テープもあった。10代から高齢者まで様々な生徒がインタビューに答え、戦争や貧しさ、文字を覚える喜び、働きながら学ぶ学校生活を語っている。
戦争孤児だった髙野さん。少年時代を闇市で盗みに手を染めながら生き抜いた経験がある。そんな自分を、貧しい家庭で満足な教育を受けられず、連続射殺事件を起こした永山元死刑囚に重ねていた。「連続射殺魔・永山則夫の『私設』夜間中学」というグループを立ち上げて支援した時期もあった。
写真 永山則夫 劣等生集まれ Tシャツ
資料の中からは、永山元死刑囚が拘置所から髙野さんに宛てた手紙も多数みつかった。
「こんにちは! その後お元気ですか」。79年11月の手紙はそう始まり、「新たなる署名をお願いすることとなりました」「人民の皆さんの助力により、国会の場で糾明したく思います」と記されていた。
永山元死刑囚が訴えた死刑廃止などに協力を求めたとみられる。
写真 髙野雅夫宛の永山則夫の封書
髙野さんは昨年、老衰のため85歳で死去。資料は今も水本さんや白井さんが地域別に分類しながらインデックスを付け、フィルムの映像はデジタル化してDVDに移しつつある。まだ全容解明にはいたっていないが、資料をもとにして研究誌の発行などを検討しているという。
水本さんは「行政の公的な資料と違って、教育現場の日常を反映した資料はなかなか残らない。夜間中学とその歩みを知ってもらうために生かしたい」と話している。
髙野雅夫(たかのまさお) 1939年、旧満州(現中国東北部)生まれ。戦争孤児になり、61年に21歳で東京都荒川区立第九中夜間学級に入学した。66年に行政管理庁(当時)が夜間中学の早期廃止を勧告したことに抗議し、自ら制作したドキュメンタリー映画「夜間中学生」を各地で上映し、夜間中学の存続や拡充を訴えた。後に立教大大学院の特任教授も務めた。著書に「夜間中学生タカノマサオ」など。2025年、老衰で85歳で死去。
写真 大阪214日の行動を記した行動記録 ドヤの天井に貼っていた




















コメント