夜間中学その日その日 (1078) 白井善吾
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永山則夫と髙野雅夫 2026.02.28
朝日新聞のデジタル版 「元夜間中学生が残した4トン車満杯の資料 永山則夫元死刑囚の手紙も」( 2026年2月21日 )を読まれた方から、髙野さんと永山則夫、知り合いだったんですか?との問い合わせがあった。
私が夜間中学に赴任した時、図書室に永山則夫の著書『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』、『動揺記1』 が何冊かあった。これは獄中の永山から夜間中学生に読んでもらおうと、髙野さんから届けられた書籍だと説明を受けた。
髙野さんが東京を立ち、大阪に向かったその日、1968.10.11の早朝、東京・品川のプリンスホテルでガードマン・中村さんが殺害された。事件が起こったことは大阪に着くまで髙野さんは知らなかった。函館の殺人事件の報道があった、1968.11.13のわらじ通信に次のように記し、投函している。

「広域重要事件」108号 東京―京都―函館―名古屋とピストルで4人射殺した犯人は…京都の警備員が死ぬ前『17~8の少年だ』といった。今頃どこで、どんな思いで生きているのだろうか?父母は?義務教育は?飢えに泣いているのではないか?もしかしたらこの大阪に——彼を“人殺し”に追いやったヤツラと―-俺たちを夜間中学に追いやり。それさえ奪おうとするヤツラ同じヤツラだ。チキショ―今にみておれ‼」
髙野さんはこの犯人を、自分たちと同じ生い立ちの、義務教育未修了者ではないかと見抜いている。逮捕を報ずる1969年4月7日の記事を『チャリップ』に貼り付けている。
逮捕され、弁護団の弁護士から、髙野さんに「同じ境遇の髙野さんなら、永山は心を開くであろうから」と依頼があり、巣鴨を訪問し、接見するようになったそうだ。
『チャリップ』には接見室での永山とのやり取りが「永山則夫の“私設”夜間中学いろはがるた」 として謄写版刷の記述がある。
・形から心にならぬ―心が形になるのだ。過去にこだわれ―過去にこだわれ!勝つ日まで
・世の中が悪い―個人が悪い―では解決にならぬ
・“連続射殺魔” 永山則夫が校長だ。劣等感を捨てるな-劣等感は武器だ。劣等生
・なにかを奪い返せば―なにかを奪われる。なれあいは―仲間殺しの猛毒だ
・なりふりかまって負けてきた
・仲間から二度と出すまい人殺し!それが殺した人と遺族に対するつぐないだ。
・永山則夫が殺(や)られたら次は俺たちだ!
接見窓ごしで永山則夫と論争している内容が記されている。
そのころ髙野さんは「全国唯一の“夜間中学相談所”になっている入学したいといってくる人は東京に呼んで入学と就職の世話をする「にゅうがくをことわられた」と手紙が届くと全国どこでも助けに行く」(朝日 1970.01.11)と報道があるように、夜間中学の現状に大きな疑念を持ち始めていた時期で、しかし夜間中学に期待をかけていた時でもあった。そしてあるべき学びの場の創造を模索していた。そしてたどり着いたのが、「永山則夫を校長に据え、“私設”夜間中学」の開設であった。
1972.11.30、東京都足立区千住曙町に住居を借り、最下層-最劣等生集まれ!俺たちは人殺しにはなりたくないし殺されたくもない。武器になる文字とコトバを掲げ“私設”夜間中学を始めた。永山則夫から手紙が届くようになり、その手紙が「髙野雅夫夜間中学資料」として髙野さんは保存されている。
私たちの資料整理作業では手つかずの部分であり、他の資料から出てくる永山則夫の記述から髙野さんに尋ねたことがある。永山則夫が大阪にいた時、守口市の米屋さんで働いていたことを伺った。東京・京都・函館・名古屋でなくなった遺族宅に線香をあげるため、尋ねていった時玄関先で戸を閉められ断わられたときのこと、永山の母親を青森に尋ねた時の話もでてきた。もう母親は亡くなっているだろうが、もう一度線香をあげに青森に行きたいと何度も髙野さんからお聞きしたが、実現できなかった。
最高裁が死刑の判決を出した(1990.4.17)とのニュースが流れた時、夜間中学生に「もし永山さんが夜間中学に来ていたら、あんなことをしないで済んだかもしれないと」教室で話した。この時、ちょうど朝日新聞の丹治記者が取材で訪問されていた。5月1日に「夜間中学 『永山元被告も来ていたら…』」の記事が掲載された。
髙野さんは夜間中学開設を訴え、全国行脚中の“わらじ通信”には社会で起こる出来事に怒りを込めた的確なコメントを記し、母校・荒川九中夜間中学の後輩に送られている。母校に届いた髙野さん宛ての手紙を受け取った髙野さんは、送り主を尋ね、大阪拘置所にも何度も足を運び接見を実行されている。




















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