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夜間中学その日その日 (998)  白井善吾

  夜間中学生の参加が学校を変える/登校拒否の子どもたち(1) 2024.10.26


 天王寺夜間中学が開校になった1969年、私は大学を卒業し教員になった。夜間中学に転勤が決まったのは教員生活19年目の4月。その間学校での持ち時間は少なくし、被差別部落の子どもたちの解放子ども会の活動を支える取り組みの担当を経験することができた。何ができるか、とりくみを創造していくところから始まった。学校から、子どもが登校していないとの連絡が入ると、家を訪問し、布団にくるまって顔を合わそうとしない子どもと“無制限一本勝負”を何度も経験した。親も加わり、部落差別との闘いや、悩み、人生を聞く貴重な機会を多く持つことができた。“どこまで続くぬかるみの道”と呼ぶ一対一対応を克服して、集団作りに展開する方法も、先輩に教えられ貴重な経験をすることができた。


 解放子ども会の自治活動を学校の生徒会活動につなげていく、クラスの中で、孤立している子どもたちをつなげ、授業が分からず、黙って50分座っている私たちのような“お客さんをつくるな”と教師集団にわかりやすい授業の工夫を要求するとりくみが生まれた。“お客さん”が授業に参加して、発言する。クラス内の“お客さん”評価に変革が生まれ、教師はもちろん授業に参加するクラス内に緊張関係が生まれてきた。要求を出す以上、授業に参加する子ども自身の姿勢にも変化が生ずる。私にとって貴重な体験であった。




 40歳台で転勤したころの夜間中学は多くの夜間中学生は私より年上の人たちがほとんどで、その中に不登校になった、登校拒否の子どもが数人学んでいた。その子どもは昼の学校の雰囲気が我慢ならず、何度も先生に申し入れたが聞き入れられなかった。こんな学校の卒業証書は受け取らないと、改めて夜間中学に入学した。

 「僕は中学3年への進級直後から、学校へは行きませんでした。正確には行けなかったと言ったほうがいいかも知れません『自分が腐る』そう錯覚してしまったのです。学校へ行かないということは高校への進学、大学そして将来への不安へとつながり、一度に襲いかかってくるのです。気が狂いそうでした。

何故学校に行くと『自分が腐る』そう思ったのか、今にしてみればはっきりわかります。学校の教師の大半が腐っていたからです。生徒を殴る教師、罵声を浴びせる教師、そして友人関係への不満。いろいろなことが重なり学校へ行けなくなっていったのです。ある日一つの決心をしました。将来の重すぎる不安で『自分がつぶれる』そう思ったのです。学校へ行けば腐る。家にいたらつぶれる。そこで両親を呼んでもう学校へは行かないことを宣言したのです(後略)」


 この文章を書いた夜間中学生が通っていた、昼の中学を訪問した時、担任とは転勤していて会うことはできなかった。学年の先生からも登校拒否に至る経緯を聞くことができなかったし、先生たちには登校拒否に至るこの子どものことは教員全体の課題としてとらえられていなかった。もう一人の夜間中学生の場合、旧担任から、十分対応ができず、申し訳ないがよろしくお願いしますと連絡があった。


 祖父母に相当する夜間中学生の対応はさすがであった。一人は行動的、もう一人は寡黙な若い夜間中学生につかず離れず、クラスの中心に引っ張り込む働きかけを行った。先生に質問する方法はとらず、隣の夜間中学生に尋ね、会話する方法をとった。そして得意な科目、興味ある分野を探っていった。


 通っている夜間中学が市民の開設運動で生まれたことを知ったとき彼らの表情が変わった。その髙野雅夫さんが大阪に来ていること、来校することを知り、髙野さんの著書『자립』を見せてほしいと職員室にやってきた。職員室にその本があるとクラスで聞いてすぐに見たいと入ってきた。

 早く登校して、『자립』を見ながら彼らを取り囲むように話が弾んでいた。髙野さんと夜間中学生の話は彼らに少なからず影響した。クラス以外の授業も体験したいと中国引揚帰国者が多数学んでいるクラスにやってきた。いつの間にか、「小さい先生」の役割を見つけ出し、日本語指導をしているようになった。「今日は『小さい先生』は来ないのか?」そんな声が出るようになった。


 2年目には、彼のこの動きは夜間中学から外に拡がっていった。

「夜間を拠点に識字学級をまわりました。公立の夜間中学増設をめざして開設された二つの自主夜間中学、一つは羽曳野市、もう一つは大阪市生野区にありますが、そこで勉強しました。その時は相手の人に殆ど日本語が通じなかったので、12歳の女の子に通訳をお願いしました。逆に中国語を教えてもらい、一生懸命頑張ったが駄目でした。僕が『中国語は難しいですね』というと、相手の人は『日本語のほうが難しい』と言って笑いあいました。僕にとっての勉強とは、いろいろな場所で、いろいろな人と出会い、時間を共有することかもしれません。それが僕の夜間中学なのです」


 彼にとっての夜間中学をこのような文でまとめている。夜間中学生の自主的な取り組みを夜間中学全体で受け止め、夜間中学の学びの検証と点検を行う。夜間中学生の実態に、夜間中学の側が緩やかに対応し変化していくことではないだろうか。

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