夜間中学その日その日 (452) 白井 善吾 Journalist Worldジャーナリスト ワールド
- 白井 善吾
- 2016年4月10日
- 読了時間: 4分
守口夜間中学で42回目の卒業式が行われた。2014.03.14、雨上がり、この日も寒かった。午後5時45分、共同作品で飾られた会場に在校生が着席した。普段着の中に、平服、式服が混じる。続いて教育長、市議会議長をはじめ来賓が着席。6時、拍手に迎えられて8人の卒業生が入室、在校生と対面する形で着席した。
式辞の冒頭を学校長は次のような言葉で始めた。「野山に霞立ち込めて燦々たる太陽の下 生きとし生けるもの皆春の躍動に目覚める時が来ました」。66年前の第1回卒業式で卒業生代表が読んだ答辞を引用した。そうだ、4月から「さつき学園」と名前が変わり、1年生から9年生まで、年齢も6歳から80歳代の人たちが学ぶ日本で初めての学校となる。
夜間中学の卒業式は参加者一人一人が参加できる夜間中学の授業だと思った。夜間中学の1年間の活動報告が映像と夜間中学生の説明が行われ、夜間中学にたどり着くまでの人生、そして学ぶことの意味が夜間中学生の言葉で語られ、参加したものも自分に引き寄せ考えることができる貴重な時間である。
「9年前、娘に無理やり手をひっぱられるようにして夜間中学の階段を上がってきました」と言っていた李オモニは卒業式の数日前、入院してこの日は参加できなかった。入学してしばらくたった頃、保育所に通っていた孫と一緒に夜間中学の授業に参加していた。授業中、声を出し始めた孫と一緒に廊下に出、孫に言い聞かせていた。その孫を職員室で引き取り、授業に参加できるようにしていた。その孫は生徒会の活動にも参加した。小学1年生になったとき、「しょめい おねがいします。おばあちゃんの がっこうが つぶれるんです。しょめいしてください」と近鉄八尾駅前で署名活動を行った。祖母の学ぶ姿がこの言葉になった。
「校門のところでうろうろしている人があったので、声をかけたら、夜間中学に入学希望の人でした。夏休み中やから夜間の先生はおられません。別の日に来てくださいと言いました。ひょっとしたら職員室におられるかもと思い、上がってきました。今やったら間に合うかもしれません。土居駅の方へ歩いて行かれました」。昼の先生の機転が、入学につながった。その夜間中学生も卒業する。「これからも勉強を続け自分にできることをどんどん見つけてやっていき、人の役に立てるような人間になりたい」と語った。
「私の将来の夢は福祉の仕事をすることです。たくさんの人を助けたいです。みなさんのことを絶対忘れません…」と語ったミナが夜間中学を訪ねてきたのは10月の初め、9月の募集期間が終わって間もない頃であった。大東市の研究会に講師として呼ばれ、出かけようとしていた時であった。教員の空き時間をつなぎながら、時間割を作り、授業を始めた。異文化の中で戸惑う生活のスタートであった。来年の4月まで待ってくださいとは言えなかった。家族はもちろん、教室の夜間中学生が日本語が理解できないミナを受け止め、ボディーランゲージを駆使してミナの心を開いていった。
就学援助補食給食の大阪府負担継続を求めて、近畿夜間中学校生徒会連合会が大阪府庁へ出かけアリ行動を行ったとき、タオさんは毎回参加した。応接した府教委首席指導主事の他人事のような答えに対し、あなたが教育者なら、今の発言は許せないと明確に指摘した時のことが思い出された。
「‥安倍政権は戦争法案を施策し、他の国と戦おうと思うので、関係がほとんどない海外の国へ血税を大量投入するのに、夜間中学校への財政支援を全然していない。必ず、夜間中学校の法制化を実現するため、そして法制化による財政保障を実現させるための努力をしなければなりません」と文集に書いている。
ヒサコさんは「生徒会役員をさせてもらったおかげで他校との交流、多くの人たちとの学び、出会いがあったからこそ、視野も広がり、私にとって、一歩前に出ることができました」と学びの大切さを語った。
夜間中学での体験、経験をこれまでの人生の歩みに加え、次への舞台に歩みだしていった。2016年4月、守口夜間中学はこの学び舎から隣に建築された新校舎に移り、新たな歴史を刻み始める。