夜間中学その日その日 (498) Journalist World ジャーナリスト・ワールド
- アリ通信編集委員会
- 2017年6月25日
- 読了時間: 3分
大阪に夜間中学を作らせる闘い(1)
髙野雅夫さんが証言映画『夜間中学生』と文集『ぼくら夜間中学生』を持って大阪駅に降立ったのは1968年10月11日。その足で大阪教職員組合を訪問し、上映運動、夜間中学、長欠児、義務教育未修了者の問題について話合いを行っている。

教職員組合の反応について、この日の『わらじ通信』には次のように記している。
「『大阪市内に夜間中学を新設したい』ということはたいへんな仕事だと驚かれる。正直いって長欠児及び未修了者の実態は全く把握されていない」「焦らずのんびりとやります。先は永い旅だから」と自分に言い聞かせ、釜ケ崎の宿舎に腰を落ち着けた。
このように大阪の214日間のとりくみ(1968.10.11~1969.06.08)を開始した。家族が風邪で倒れたため等で、急遽東京に戻った、期間を除き、一日も欠かすことなく母校に郵送された官製葉書『わらじ通信』で大阪での活動をたどることができる。
大阪での活動を取材した新聞記事は23本、大阪入りしてわずか10日後、
「夜間中学を奪わないで」 毎日 1968.10.24の6段抜きの記事から始まる。
「河内少年院」 毎日 1968.11.13
「岐路に立つ夜間中学 下 」神戸 1968.11.26
「越境かまいません」 毎日 1968.12.14
「夜間中学をなくさないで」 毎日 1969.01.14
『浮浪児マサの復讐』 朝日 1969.01.21
『浮浪児マサの復讐』 東京タイムス 1969.01.21
「16年・・夜間中学の灯消える」 毎日 1969.02.02
「夜間中学を設けたい」 毎日 1969.02.06
「正規の課程で 夜間中学つくる」 讀賣 1969.03.13
同様の報道が 毎日、朝日、産経 1969.03.13
「天王寺 正式 決定」 毎日 1969.04.01
「夜間中学いつ開ける」 毎日 1969.04.26
「夜間学級晴れて公認」 朝日 1969.05.13
「待望の『夜間中学』天王寺中学に併設」 日経 1969.05.20
この天王寺夜間中学開設を伝える記事は 産経、毎日 1969.05.20
朝日、讀賣 1969.05.21
「天王寺夜間中学へ68人」 朝日 1969.06.01
「『晴れて夜間の中学生』天王寺中学で入学式」 讀賣 1969.06.06
テレビも扱った
「ハイ土曜日です」(関西テレビ 1968.11.23)
*桂米朝司会の人気番組、夜間中学生、教員、卒業生、文部省役人が出演。
カメラルポルタージュ「浮浪児マサの復讐」(朝日テレビ 1969.01.21)
*髙野さんの活動を追っかけた、五島庸一(大教組教文部長)さんに迫る髙野さんの弁舌とやりとりは、開設にむけた舞台へと大きく展開する原動力となった。
「私にとっての教育 (婦人学級)」(NHK 教育 1969.01.21)
「16年目の入学」(関西テレビ 1969.04.13)
*「ハイ土曜日です」を見て、名乗り出た小林晃(大阪市在住)さんが
神戸市立丸山中学に入学するまでを追った、ドキュメンタリー番組。
国は夜間中学を廃止していく、そして夜間中学がなんたるかも分からない当時の大阪の教育行政や教育関係者を前に、夜間中学の必要性を説き、夜間中学を開設させていく214日の闘いは、あらためて検証し、50年後のいまに、生かしていくヒントが満載である。
義務教育未修了者を見つけ出す髙野さんの実践は多種多様だ。街頭でビラを配り、映画「夜間中学生」の上映を訴え、ビラを各戸配布するなど壮大な無駄の積み重ねから新聞、テレビ、ラジオが取り上げ、少しずつ「夜間中学」を行政担当者に認識させていく。知り合えたひととのつながりを大切にし、その結果を必ず報告をする。担当者が不在であれば伝言をし、後日訪問し、面談する。そこから次の新たな展開が生まれていく。後になってこのようにすべきであったと後悔するなら、自分が納得できるまで手立てを尽くす。ある意味、世間の常識を徹底して実行している。
「わらじ通信」をタイプうちした記事が『ルンプロ元年 자립』の収録されている。「大阪214日間のとりくみは」288~625頁である。