夜間中学その日その日 (511) Journalist World ジャーナリスト・ワールド
- アリ通信編集委員会
- 2017年10月6日
- 読了時間: 14分
夜間中学の明日への展望をどう描くか(3)
形式卒業者の夜間中学入学について
私たちが夜間中学のとりくみで追求してきたこと、学習者の生い立ち、歩んできた人生、いまおかれている実態を学び、解決の方途をどう切り拓くか、その力になる夜間中学の学びをどう創造するかに力点を置いてきたということが出来る。
十分出席も出来ず、学習内容の理解も十分でないが卒業証書がなければ困ることもあるだろうと、昼の中学校は善意で卒業証書を発行した。いわゆる形式卒業である。形式卒業者が夜間中学のあることを知り、夜間中学がある東京や大阪に住所を移して、入学を求めてきた。1970年代の初めのことだ。
1971年11月26日、第18回全国夜間中学校研究大会で、一人の形式卒業者・須堯信行が告発を行った。発表する原稿は、大幅に手を加えられ、製本され配られていた。直前に会場で配った元の原稿に基づいて発表した。簡略化できない、全文の引用になる。

怒り
形式中卒 オール一の会
大阪市・天王寺中学夜間学級 一年三組 須尭信行 21才 工員
得体の知れない何かが俺の心を「ズタズタ」に切り裂き俺の人間としての感情のすべてを奪って行ってしまった。そして、俺がふと我に帰ったとき、そのときすでに俺は人を信じることのできない、人を憎むことしか知らない人間に改造されていた。俺をこんな人間にしたのはいったい何だ!? いったい誰だ! 俺は、それを追求し糾弾する!
俺は筑豊のある炭鉱で五人兄弟の長男として生まれた。しかし、俺が小学校へ上がるころ炭鉱は閉山し、家にはランドセルを買う金もなかった。だから、入学に必要な学用品などは伯父さんが見兼ねて買ってくれた。しかし、二年生の中ばになるころ伯父さんの買ってくれたランドセルは壊れて使えなくなった。もちろん、もう新しいカバンを買うことなどできなかった。だから、俺はカバンの代わりに、旧軍隊の使っていたという古い毛布で母が作ってくれた袋を持って学校へ通った。それから、友達の弁当箱は新しくて中には白いめしが入っていたが、俺の弁当箱は古い大きな、でこぼこの真ん中には梅ぼしの酸で穴の空きそうな「ドカベン」で、その中には外米と大麦でたいた薄黒いめしがはいっていた。友だちは、それらを見て俺をからかった。「いや先公までが」 俺はほしかった、新しいカバンが。新しい弁当箱や白いめしが。先生、それでも俺は学校をずる休みなんかしたことは一度もなかったぜ。そして、五年生になるころ、俺をもう一つの不幸がおそって来た。と言うのは、黒板に書いてある字が、そのころから急に見えなくなったんだ。原因は良く分からないが、たぶん栄養失調による極度の近視だと思う。なぜかと言うとちょうどそのころ姉や弟も同じように目が悪くなったからだ。しかし、姉や弟は、すぐに担任の先生の指導でメガネを買ってもらった。でも俺の担任の先公は視力検査の時に、たった一言「メガネを掛けらないかんね」と言っただけだった。その時に俺の視力は、もう0.1に近かったと思う。俺は姉や弟がメガネを掛けているのを見るとうらやましくて仕方がなかった。しかし俺は父や母に「メガネを買って」とはどうしても言えなかった。俺は知っていたからだ。そのころ、小さな「ヤマ」で働いていた父の給料が「七千円」ほどだったことを。また、母が俺達に、ひもじい思いをさせないために、自分は食べる物も食べずに命をすりへらして働いていた事を。だから、俺には言えなかったんだ! だが、母は、姉や弟が目が悪くなったのに俺だけ悪くならないのはおかしいと思ったのだろう。「信行はメガネを掛けんでもいいとね?」と俺に尋ねた。その時俺は、とっさに答えた。「俺は千里眼だからメガネなんか掛けんでも龍王山の裏側まで見えるばい」と。先生、あんたたちの目から見れば愚かなことかも知れないが、俺にしてみれば、それでも精一杯親のため兄弟のため自分を犠牲にして耐えているつもりだったんだ!
俺は隣りの席の友達に「あれ何ち書いてあると、その次は?」と聞きながら、友達のノートをのぞきながら勉強した。友達は、からかいながら教えてくれた。先公はそれを見ても知らん顔だった。そうしているうちに中学になったが、授業にはまったくついて行けず、そのために先公が出した問題が答えられずに、気絶するほどぶんなぐられたことも何度かある。ちょうど、それと同じころ俺は自分で働くことを思いつき新聞配達を始めた。自分で金を稼げば母に苦労を掛けずにメガネは買えると思ったからだ。しかし、駄目だった。元々体が弱く病気ばかりしていた俺はすぐに体を壊して、結局、二倍も三倍も苦労を掛けてしまった。
先生、貧乏と言うもんは恐いもんだよ、人間のすべてを破壊するから。あんた方はそれを知らないだろう。
やっと見つけた望みも失った俺は、絶望の極限に追い詰められた。あんた方には、この時の俺の気持ちがわかるかい?
俺は憎かった、幸せそうな面をした奴らが。できない生徒の気持ちなど無視して廊下に成績順位を貼り出したり、貧乏人の生徒の事など考えずに金のある生徒にだけ授業料を取って補習授業を授けさせたりする先公が。学校が。
俺の怒りは爆発した、大音響と共に。俺は学校の窓ガラス数十枚をたたき割り机やいすを次々とたたき壊して行った。そして、何時の間にか俺は皆に恐れられるようになっていた。俺をからかった友達が俺を恐れ、俺を畜生のようにぶんなぐったり、ののしったりする以外、見向きもしなかった先公が俺をにらんでる。「ざまあ見あがれだ!」だが俺の怒を低脳デモシカ先公らは、しょうこりもなく暴力で鎮圧しようとした。ど間抜け供が、そんなことで人の教育が出来ると思っているのか! 俺は当然、暴力によって反抗した。目には目を歯には歯をと言うやつだ。「ちくしょう!」俺は低脳先公を道連れに何度も死を考えたこともあった。と言ってもあんた方には理解できないだろうが俺はあの時、一番下の弟(昭和39年4月26日生まれ現在小学校一年生)が、生まれていなければ間違いなく先公とあの世に行っていただろう。
俺をそこまで追い詰めていたものはいったい何だ! いったい誰だ!
そうこうしているうちに俺は小学校以下の学力のまま中学を卒業した。なお、俺が小学校へ入学して中学を卒業するまでに先公が家庭訪問に来たのは、わずか二回か三回だったと思う。そして、「メガネを掛けらないかんね」と言ったのは後にも先にも一回きりだった。奴らは何かと言うと俺を非行少年あつかいにはしたが、その原因を調べようとはしなかった。俺が非行少年なら奴らは非行先公だ! あんな奴らが教育者として現実に存在しているのだから、まったく話しにならない。あんな教育者なら俺にだってできるぜ!
すべての教育関係者よ俺は貴様らに聞く!「俺はこれでも中学校の課程を終了したと言えるのか!?」 世の中には俺みたいな、いわゆる形式卒業者は、沢山いるはずだ。その数をもし調べたとするなら、おそらく莫大な数に昇るはずだ! また、その人達の中には俺と同じように夜間中学に救いを求めている者が沢山いる。だのに、貴様らはなぜそれを暖かく迎えようとしないのだ! 法だと規則だと、ふざけるな! 法が今まで俺達に何をしてくれた。馬鹿も休み休み言え! このうすら馬鹿め! だいいち法がその役目を充分に果たしていたなら形式卒業者などは生まれなかったはずだ! また夜間中学なんてものは必要ないはずだ! その生まれないはずの形式卒業者が生まれ、必要ないはずの夜間中学が現実に必要なのは一体なぜだ! 俺の、いや、すべての形式卒業者に納得のいくように説明しろ!
俺は憎い、矛盾だらけのこの世のすべてが。ぶっ殺してやりたい、その矛盾を当然のように押し通そうとする人民のすべてを。貴様も! 貴様も! お前もだ!
俺が東京や大阪の夜間中学の存在を知ったのは今から約二年ほど前、テレビのある番組でその存在を知った。そのころ俺は家の近所にある洋服店へ紳士服仕立の職人として働いていたが、それを知ったその日に俺は東京の夜間中学に行こうと決心し、そのための計画を立て始めた。しかし、それはきわめて困難なことだった。と言うのは、そのころ母は脳出血で倒れ、寝たり起きたりの状態だったし、当時中学三年だった妹の高校進学もどんなことがあっても実現したかったから。しかし、やっぱり勉強したかった。学校へ行きたかった。今の生活をこのまま続けて行ったなら俺は父や母がたどってきた困窮の歴史を再びくり返すだけだ。そう思えたから。
それから半年後、俺は汽車に飛び乗っていた。生まれて初めて乗る汽車だ。「生まれて初めてだぞ!」その時、俺は20才だった。生まれて20年間、その困窮の歴史の中では、汽車に乗ることすら許されなかったのだ! ただ貧しいがゆえに。貴様らには想像もできないだろう。行く先は大阪。俺は母のために東京行きを断念し、大阪の夜間中学をめざしていた。妹の高校進学は俺の血と汗の結晶である貯金をはたくことによって実現は百パーセント可能になった。しかし、母の病気は俺の力ではどうにもならない。だから少しでも近くに居てできるだけ心配掛けない様にするため東京より近い大阪を選んだ訳だ。しかし、その俺を社会は受け入れてくれなかった。必死に救いを求めてきた俺を世の中の機械人間どもは受け入れてくれようとはしなかった。法がどうだとか規則がどうだとか言って、卒業証書と言う紙切れを楯にして。だが俺はあきらめなかった。いや、あきらめる訳には行かなかったのだ。それをあきらめることは俺にとって死に等しいことだったから。奴らは知っているのだろうか、自分達のやっていることが殺人的行為であることを。それが俺に大犯罪を犯させようとしたことを。
俺は最初、府の教育委員会に電話で問い合わせた。しかし形式卒業のことを言うと一ぺんで断られた。「義務教育だからそうゆう人は駄目」とぬかしやがった。ふざけやがって! もちろん市の教育委員会も同じことだった。電話で駄目なら・・・、俺はそう思って地図を頼りに府庁を訪ねた。しかし、結果は同じ事だった。それでもあきらめずに、今度はこの天中に電話で問い合わせた。駄目なことはわかっていても何処かに、わずかな、隙き間でもあるかも知れないと思ったからだ。しかし、やっぱり駄目だった。だけど、その時、最後に言われた「頑張てね!」という言葉に、わずかな可能性を感じ、市役所の教育委員会を訪ねた。しかし、やっぱりそこにいた者は機械人間だった。「ちくしょう!」この時俺の怒が再び大爆発を起こすきざしを見せた。社会とは、まったくかってなものだ。犯罪を犯せば少年法がどうだとか死刑がどうだとか、わめき立てるくせに。そうならないために必死で努力をしている者には、誰も手を貸そうとはしなかった。俺は完全に頭に来た。「よし、もう一度だけやって見よう。しかし、今度も駄目だったら、俺はこの矛盾した社会の俺を受け入れようとしなかった機械人間どもを血祭にあげてやる。」奴らが俺の生きる道を奪えば、俺は奴らを殺す。それが、無力な俺に残された、ただ一つの道だ。俺がこの矛盾した社会に対し抗議する方法は、それしかないし、またそれは当然の報復だ! 俺は、その時そう思った。
そして俺は最後のすべてを掛けてこの天中を訪ねて来た。いや、訪ねて来たと言っても、すぐに来れた訳ではない。この間三ヶ月俺は何回となく学校の回りを、うろうろと歩き回った。俺のような者でも人を殺すことはいやなんだ! 恐いんだ! だから・・・。俺はそこまで追い詰められていたんだぞ! そんな思いまでしないと入学できなかったんだぞ! そうしてやっとの思いで入学したんだ。その「ズタズタ」に傷ついた俺を待っていたものは残念なことに、ここでも差別と偏見だった。先生、俺はなぜ夜間中学に来てまで差別を受けなければいけないんだ! 差別はしていないとは言わせないぜ! 俺は許せない。真実の民主教育、真実の解放教育の場であるはずの夜間中学で差別を再生産した教師を、昼間の教育体制を持ち込んだ教師を! だから俺は言う。卒業証書を楯に俺を抑圧し差別した、もっともけいべつすべき教師に。先生、あんたは、俺が昼の中学でやって来たことを、再びくり返させようてえのか! あんたはそれでも教師か! 俺は人より頭が良い訳でも、初めからできるわけでもありませんぞ! そんなことは入学の時に学力テストを受けているからわかっているはずだ! それを何だ、ちっと答があったからって、「あんたはようできはるよって遠慮してもらえまっか、あんた中学卒業してはりまんの。そんなことで差別しまへんけどな」だと、それだけならまだいい、てめえ俺が答をまちがえた時、何と言った!「は? なんでそないなりまんねんな」 そう言ったはずだ! 答がまちがえば馬鹿にし、合えば合ったで良くできるから卒業しているから遠慮しろと言う。これを差別と言わずして何と言うのか。このほかにも、あげればきりがないほどあるぞ! てめえは知っているのか、俺が、そのたった一枚の紙切れのためにどれほど苦しんだか。俺はそれのために大犯罪(自分では犯罪だとは思わないが社会一般で言う殺人罪)を犯そうとしたんだぞ! 命まで掛けたんだぞ! 生徒の悩みを知ったら、それを解消してやるのが教師じゃないか。それを貴様は何だ! 生徒の悩みを解消してやるどころか、それを拡大するような無責任な発言をし、その悩みを楯に差別を再生産し、俺を抑圧しようとした。てめえには教育者としての資格などまったくない。「今すぐ夜間中学から出て行け! いや、教師をやめろ!」
それから、国民を守るべき法で俺を殺そうとした教育行政関係者たちよ、貴様達にも言わせてもらう。高校の予備校化された、今の中学校。エリートコースを目差す進学体制の「ひずみ」から生み出された俺たち形式中学卒業者に対する責任はどうするのか!? 俺たちは現在の教育体制の「いけにえ」になった犠牲者なんだぞ! てめえたちの責任は隠蔽し、俺たちの夜間中学入学は法的に正式に認める訳には行かないと言うのか。このど阿保め! そんなことより俺たちを生み出している今の教育体制こそ教育基本法や学校教育法によって、とがめるべきではないのか?!
中学を卒業していないと、嘘をつくことを条件に入学した、すべての形式卒業者たちよ、同胞よ、俺は、お前たちにも言う。今こそ俺たちの立ち上がる時が来た。みんな勇気を出して立ち上がれ、今俺たちが立ち上がらなければ、俺たちの恨みは、俺たちの怒りは、永遠にこの世から葬り去られるぞ! それでも良いのか、それでもお前たちはくやしくないのか! それでも嘘をつきながら、こそこそ遠慮しながら学校へ来たほうが良いと言うのか、自分だけいい子になって、入学できないでいる同胞を見捨てるつもりなのか!? 俺はいやだ! だからやる。形式卒業者の教育権を勝ち取るために! それによって、もし、俺が夜間中学に来れなくなったら、その時こそ俺は、この矛盾した社会に対し、すべての教育行政関係者に対し命で持って抗議する!
誰も知っちゃいない。追い詰められた人間の恐るべき凶暴性を。だが俺は知っている。だから叫ぶんだ! 貴様たちには聞こえないのか! 俺の叫びが!
俺の叫びが、俺の怒りが、俺の涙が、貴様たちの血に変わることを忘れるな!
(この作文は、俺が夏休み中かかって書いたものです。この俺の叫びを、俺の怒りを、全国の夜間中学の先生方、ならびに、すべての教育行政関係者の皆さんに聞いていただきたい。)
夜間中学の歴史上、革命的な大会と言われている、18回大会に私は参加できていない。しかし髙野雅夫さんがテープ起こしをして収録した『자립(チャリップ)』(925~930頁)でそのやりとりの様子は文字面で知っていた。
大阪人権博物館特別展「夜間中学生」の準備の中で、須堯さんが書いた原文が発見できた。1971年夏、書き上げた文章である。もちろん、展示予定に入っている。会場で見ていただきたい。
私が入学希望で訪れた須堯さんの面談をしていたとしたら、どのように対応したであろうかと考える。学びの実情を考えれば、保障しなくていけない。しかし出来るであろうか?制度の中で考えれば否定的な答えになる。しかし、個々の実情から考えると保障しなければならない。答えを引き延ばすことは出来ない。
「中学を卒業していないと、嘘をつくことを条件に入学する」というこそくな方法でしか対応しない現場に対して、17回大会と18回大会にわたって、形式卒業者の夜間中学入学について、入学を認めるよう、夜間中学生自らが、教員を乗越え文部省に回答を求めた。長いやりとりの末、担当者から「昨年の段階では形式卒業者は受け入れられないと公式的な発言をしていましたが、(今年は)学習したい人には学習する機会を与えるべきではないか」との回答を引き出した。
それから44年経った2015年7月30日、文部科学省は通知を出した。そこには「実質的に義務教育を十分に受けられておらず、社会で自立的に生きる基礎を培い、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うといった義務教育の目的に照らして、再度中学校に入学を認めることが適当と認められる」と記している。
夜間中学生の「学び」が教育と社会を変える!夜間中学のあゆみの中で、私たちはこのことを確認している。
夜間中学生のおかれている実態に深く学び、その解決、実現に夜間中学生と共闘してとりくむ。この展開を須堯さんは夜間中学教員に訴えたと考える。
「制度」か「ひと」か?夜間中学生の提起は50年かかったが、この通達となった。何度も言うが、この間、何人の学習者が学びを奪われたのだろう?
このことは、夜間中学の明日への展望を考える重要なキーワード、「制度」か?「ひと」なのか?を提示している。