夜間中学その日その日 (525) Journalist World ジャーナリスト・ワールド
- アリ通信編集委員会
- 2017年11月19日
- 読了時間: 3分
特別展「夜間中学生展11.18」(1)
「よう、ここまで、資料を残しておいてくれました。どきどきして、なんとも言えません。たくさんの人に見てもろて、夜間中学で勉強している私たちのこと知ってもらわんとあきません」。何人もの夜間中学生が髙野雅夫さんの手を握りこのように語った。
150平米の特別展示室は陳列ケースの中から飛び出してきた夜間中学生と来館した夜間中学生とで語らいが始まる、特別展示室の時間と空間はさながら生きて動く『夜間中学生展』となった。
11月18日(土曜日)この日、大阪人権博物館にはなつかしい顔の人たちが相次いで来館。展示の写真の顔よりしわは多くなったが、さらに歳を重ね、若くなっていった夜間中学生と話が弾んでいた。
「テレビに私が映っています。みんな、みてください」
「国会の院内集会では、自信を持って話ができた」
「この署名用紙でたくさんの署名を集めた」「橋下知事は間違ごうとる。多くのひとがそう言って署名してくれた」
「これが見つかったという、長栄の共同作品ですか。先輩が書いた絵ですか」「夜間中学生の先頭にいるのが髙野先輩ですね」
「この看板の横を通って橿原自主夜間中学に通った。なつかしい看板や」
「この小さい字がいっぱい書いてあるノンなんですか?」「髙野さんが毎日書いて荒川の夜間中学に送った『わらじ通信』。全部で461通あると書いてる」
「夜間中学のこと、高校の教科書に出てますのんか」
夜間中学生であることを誇りに、学ぶ喜びの声が途切れることがなかった。
アンケートには次のように記されていた。
「僕たちの先輩たちがこうして創った夜間中学がこんなにも苦労して守ってきてくれて感謝しています」
「髙野雅夫さんのたいへんな苦労された事に感動しました。涙ウルルンです夜間中学での勉強にもっと気持ちを込めて勉強に励みたいと思います」
「天王寺夜間中学は大阪府の第1号の夜中です。大輩・髙野さんたちの功績でもあり、私たち夜間中学生の典范(模範)です。これから布施夜間中学で勉強しますのでまたよろしくお願いします」
「私は夜間中学のおかげで、たくさんの友だちができていろんな日本の文化を勉強して、すごく、学校の先生たちを感謝しています。本当にありがとうございました」
夜間中学生の喜びと驚きの声が行き交う中、一つ一つ展示と向き合っている人もこの日も多かった。
「この記事、なんで、越境かまいませんですか?」と質問があった。
1968年6月、例えば天王寺中学は52%の越境があって、越境根絶のとりくみが大阪全体で取り組まれていました。しかし夜間中学入学を希望した小林晃君は当時大阪府に1校あった夜間中学入学を断られ、隣の兵庫県神戸市の丸山中学西野分校が入学を認めてくれたんです。完全な越境入学です。このように説明した。
質問をした人は説明を受けた後、「夜間中学は大きな、大切な社会運動や。社会を動かす力があるんや。『しないさせない、越境通学』この運動を逆手に、最高に皮肉った『越境かまいません』の新聞記事を見るとあらためて、そう思います」と語った。

大阪の夜間中学開設の運動は、卒業生ひとりの立ち上がりが、多くのひとの共感を生み、テレビ、新聞、ラジオが取り上げ、応援し、入学希望者が名乗り出て、運動の輪が広がっていった。今日の夜間中学開設のとりくみに教訓とすべき、提起がある。
この日はこれで終わらなかった。髙野雅夫さんの大きな記事が「Yahooニュースのトップに出ています」と連絡が入ってきた(*)。パソコンを開くと、ハフポスト日本版で、髙野さんがインタビューを受けた記事と動画からなる記事で髙野さんが満州から引き揚げ、博多の孤児生活、「神様」との出会い、夜間中学に入学するまでが掲載されていた。続編が掲載されるとのこと。
50年後の今、夜間中学開設への地殻変動、うねりのマグマが励起状態になり始めている。
*)「17歳、生まれて初めて自分の名前が書けた」 夜間中学卒を誇りに生きる男の記憶 ハフポスト日本版 2017.11.18