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夜間中学その日その日 (526) Journalist World ジャーナリスト・ワールド

  • 白井善吾
  • 2017年11月20日
  • 読了時間: 3分

夜間中学で追求してきたこと

1972年1月、第21次日教組全国教研(甲府)で夜間中学生が全国から参加した教員に発した告発を覚えている。「先生たちはきれいごとばかり言って、いまも学校に来れない、義務教育を終えることのできない私たちをつくり出していることを考えたことがあるんですか」。

この出逢いは、私が夜間中学に繋がる契機となった。15年後の1987年、私は守口夜間中学に転勤となった。

この15年間も、しんどさを抱えた子どもの背景に何があるのか?を探るようにして子どもたちに向き合ってきた。受け入れてもらえるようになるのに時間がかかったし、うまく行かないことの方が多かった。子どもが発しているシグナルを読み切れない対応をするとも多かった。

こんな私でも夜間中学の教員を11年続けて、昼の学校に転勤したときは、変っていた。子どもは「この先生は、他の先生とちょっと違う。違う接し方をしてくれる」と言っていた。

夜間中学生が私を鍛え直してくれたんだと考えている。

いつのまにか、他と比較して、早く、たくさん、能率よくをめざし、点数を競う教育にならされていた私を夜間中学生は、暗記しなくてもよい、忘れたら聞けばよい、辞書で調べたらよい。人と競う必要もないと新たな考え方、価値観を示してくれた。私はこの夜間中学生のメガネを通してみえる「学び」が本当の学びではないかと考えている。

効率と能率とは異なる概念である。エネルギーを注ぎ込むことで時間を節約するのが「能率」である。一方、「効率」はたとえ時間がかかっても、エネルギーを節約して成果をあげるということだ。夜間中学は「効率」を追求する学びを実践しているということができる。時間がかかっても、自分の経験体験とつながりを持たせ、未知の出来事を考えていこうとするそんな思考回路を夜間中学生は持っているんではと考えることがある。

私たちが夜間中学生に向き合い追求してきたことを思いつくまま書くなら次の7点を上げることができる。

① 夜間中学での学びを通して、見えてきた課題を国・体制・社会・教育のあり方などを学習者が糾していく。

② 体制内に絡め取られることなく、絶えず批判的視点を大切に実践をすすめる。

③ 学習者同士が繋がり、昼の子どもたちとも繋がっていく。

④ 教員と学習者、教員と生徒会の関係は、指導するもの、指導を受けるものの関係ではない。同志の関係である。このことをジョン・デューイは「教師は学習者であり、学習者は自分では気がつかないが教師である」(『教育における思考』)で述べている。

⑤ 生きた証言者(教科書)である“夜間中学生”を中心に、夜間中学生に学ぶ。

⑥ 学びは運動につながり、その運動が学びを育てる実践。

⑦ 奪い返す文字やコトバは明日の生活を勝ちとる知恵や武器となるもので、地域を変え、社会を変えていく力となる学び。

「夜間中学は教員の道場である」という言い方をするが「教えているつもりが、いつのまにか教えられていた」そんな働きをする場所が夜間中学であり、そんな力を持った夜間中学生である。

大阪人権博物館の特別展「夜間中学生」展が夜間中学との出逢いとなり、新たな歴史をつくる契機となる人たちが生まれているはずだ。密かにそう思っている。

 
 
 
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