夜間中学その日その日 (532) Journalist World ジャーナリスト・ワールド
- アリ通信編集委員会
- 2017年11月30日
- 読了時間: 4分
特別展「夜間中学生展11.25」(15)
「新たな出逢いが歴史をつくる」。このコンセプトが夜間中学開設運動にも貫かれていたと考えている。
NHKのディレクター福田雅子さんが大阪心斎橋で夜間中学のビラを配っている髙野さんに偶然に出逢った。「夕方の雑踏の中で一人際立った青年が、道行く人にビラを配っていました。(中略)『私にもビラをください。あなたは何をしているのですか』と聞くわけです」(福田雅子『人間の尊厳』1996年)。この出逢いにより、福田さんは後に婦人学級、『こんにちはおくさん』『25年目の教室』等で夜間中学を取り上げ、夜間中学開設運動を支援する大きな役割を果たすことになった。
毎日新聞の記者、伊藤光彦さんが日本記者クラブの「取材ノート」(2009.9)に寄せた「出会いの運」と題する一文にこんなくだりがある。
「・・・大阪時代の、もっと実のある出会いのひとつに、夜間中学設置運動の草分け、髙野雅夫さんとの邂逅がある。1965年のことだったと思う。その日の朝は、法善寺横町のある千日前に出勤した。たまには昼間の盛り場を見るのも悪くない、という程度の好奇心からだったに違いない。(中略)今でも旗の多い街である。『夜間中学』と墨で書いた旗がその中に混じっているを目にした。商魂だけが噴き出しているようなこの街には似つかわしくない4文字である。旗を掲げてそこに立っているのは、ルックサックを背負った、私と同年輩に見える青年だった(私も若かった)。社会部街だね記者の勘が全身に響いて、近づいた・・・」
1965年ではなく1968年の10月だと考えられるが、この出会いの後、伊藤さんは、大阪の夜間中学開設運動に牽引き役を果たす二つの記事を書いた。
「夜間中学を奪わないで ヒゲの髙野君 自主映画作り街頭で訴え 初めて勉強の味 “遅れた大人”取り残すな」(1968.10.24)。
「越境かまいませんよ 神戸の夜間中学に大阪の4人 尊い熱意拒めぬ“映画の訴え”実結ぶ」(1968.12.14)。

大阪人権博物館の特別展「夜間中学生」展にも出逢いがある。11月25日(土曜日)この日は博物館の中庭で「リバティー祭り」があり、とりわけ多くの来館者があった。展示室が静けさを取りもどしかけた頃、ひとりの女性が入室された。展示を見始めて、あまり進んでいないときに、振り向かれた眼には涙がにじんでいた。時間をおいて、メンバーのひとりがこの方に話しかけた。
からだが弱く、学校はほとんど通えなかった。中学校は形式卒業となり、今だったら、夜間中学にも入学できたのに、当時は専修学校に行くことになった。そして就職、結婚をした。どうしてももっと勉強がしたかった。連れ合いが、学校に通ったらと行ってくれ、通信制高校、そして教育関係の大学に通っている。ひそかな希望は先生になることだと一気に話された。
中学を出た後、大阪府下にある、ある自主夜間中学に、中学時代世話になった先生から、自主夜間中学にきて、手伝いをしてくれないかと声がかかった。一度伺ったきりで、その先生にたいへん失礼なことをした。今から思うと、卒業後も私の将来を考えて、いろいろと考えていただいていたのに、連絡も取らず、そのままにしていることが心残りですと。
その先生の名前をお聞きすると、特別展の出展でたいへんお世話になった方で、私たちも存じ上げている名前であった。展示物の中にあった、連絡先の電話番号をお教えした。
アンケートには次のように書かれていた。
「時代だといえども、戦争があったり、いろいろな事情で学校に行けなかった人々、私の母も祖母が早くなくなり、兄弟もいたせいか学校に行けず苦しんでいました。その頃は戦時中でした。皆様も本当に勉強がしたかったと思います。いろいろな方の力で夜間中学校ができたのはすばらしいと思います。私も体が弱かったため、中学もろくに行かなかった一人です。今日はいろいろな方の力や学びの姿を見せていただき、たいへん勉強になりました」
特別展での出逢いを、その先生に報告すると、すでに電話があり、長い時間話をし、今しがた電話を切ったところだ。私の方こそ感激しているところだと話しておられた。
ひそかな希望だと話されていた、教員にの夢がこの出逢いで実現すれば、そして夜間中学生と向き合うことができればと思う。
インターネット新聞、「ハフィントンポスト」 2017.11.25に「夜間中学の廃止勧告は俺にとっての『死刑宣告』だった」 髙野雅夫インタビュー(後編) が掲載された。この中で数々の出逢いを髙野さんは語っている。
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