「沖縄通信」第126号(2017年9月) 17年度フィールドワーク 大阪・豊中で、沖縄・コザからの風を体感しよう Journalist World ジャーナリスト・ワールド
- 西浜 楢和
- 2017年12月4日
- 読了時間: 18分
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯特別委員会(ぼくが委員長を務めている)は、8月6日(日)に「大阪・豊中で、沖縄・コザからの風を体感しよう」と題して2017年度フィールドワークをおこなった。
第1部は豊中市中央公民館で、①コザ暴動のビデオ上映、②大阪市立大学・山﨑孝史教授による講話:「コザ『暴動』とは何だったのか」、③豊中市・田中逸郎副市長による報告:「コザ市(現・沖縄市)と豊中市はどのようにして兄(ちょう)弟(でい)都市となったか」を室内研修として持った。②と③の間に、豊中まつりに来られていた「コザ暴動を記録する会」主宰の古堅宗光さんが飛入り参加してくださり、コザ精神(コザ・スピリット)のお話をうかがった。
第2部は参加者全員で、豊中まつりの会場に移動し、沖縄音舞台を見学した。なお、レポートそれぞれの文責はぼく・西浜にあります。
A. コザ『暴動』とは何だったのか

大阪市立大学の山﨑です。私は地理学を専攻していて、同時に沖縄研究をしています。フィールドは沖縄のことをしています。特に基地の所在市町村の戦後史を軸に米軍の統治が沖縄社会にどう影響を与えているのかを、主に選挙の結果から分析しています。それと、今日お話しするコザ暴動など多様な社会運動がどういう内容を持っていたのか、そういう研究を通して今の沖縄社会と日本の関係はどういうものなのか、そしてどういう方向に行くのが望ましいのかを考えながら研究しております。
1. 1970年のコザ市(現・沖縄市)
(写真は山崎教授)
さて、コザ市(現・沖縄市)は何処にあるのか、どんな街なのかを確認しておきます。前身は越(ごえ)来(く)村(そん)という農村です。1956年にコザ市に昇格、1974年に美里村と合併して沖縄市となります。東の美里の方は比較的少ないが、西のコザの方はほとんどが基地に占有されています。1944年に陸軍中飛行場が完成し、沖縄講話する山﨑教授戦で米軍が接収、嘉手納空軍基地として拡張されます。コザ暴動が起こった1970年当時の人口は67,218人、女性の割合が54.0%です。若い人が多い。これは何故かというと米軍関係の飲食店などで働いていたからです。基地占有率は63.2%に上っている。 この街の中で、米軍がいろんな消費をするのですが、その消費の仕方が1950~60年代、地区ごとに人種別に分かれて行く-コザ暴動にもかかわるので-ことを見ておきます。コザ十字路近くの照屋(The Bush)地域は、白人を追い出して黒人街に変わっていきます。当然、白人はどこかで消費しなければならない。センター通りが新しく出来て-今のパークアベニュー-、ゲート通り、少し南下した諸見里など基地に近い方が白人街となる。ちなみにこのこと自身を米軍は問題視している。公民権運動が激しくなっていった時期なので本国の議会でも問題になった。ブラックパンサーなどの変革グループも照屋あたりにおりました。 この中でコザ暴動も起こっていくのです。
筆者の西浜は、琉球大学大学院での修士論文を加筆・修正した『ヤマトゥとウチナーを彷徨する沖縄人-大山朝常・元コザ市長』(『共生社会研究』第2号所収、2007年、大阪市立大学共生社会研究会)で、コザ市について次のように記した。
大山朝常は1958年9月、コザ市の市長に当選した。戦後、コザ市はその70%を米軍に接収されていた。それ故、米軍基地の帰趨いかんにその存在の基盤を置き、基地の変動の影響をもろに受けざると得ない街であった。コザ市は基地の中にある沖縄の他の地域にもまして、最も基地経済を体内深く構造化していた。
1956年、コザ村が昇格しコザ市が誕生した当時、米軍人の遊び場だったコザ十字路の美里側は白人の町、泡瀬に向かう方は黒人の町に分かれ、双方は立ち入ることも出来ず、MPでも白人と黒人が組を作ってパトロールし、もし白人が黒人街に入りこんだり、その逆でも喧嘩さわぎになるという、米軍内部は人種差別のるつぼを呈していた。
1950年代のコザ市の状況は、幸喜良秀が、屋嘉比収沖縄大学助教授のインタビユーに答えて「少年期に見た、僕たちの生活環境というのは、恥ずかしいですよ。許せないくらい恥ずかしいですよ。そして、いつ誰が、家族の誰が、被害者になるか、そこに巻き込まれるかわからんという中で生活していた。友人や知人、隣人たちが犯され、殺される事件が、特に中学、高校の頃、頻繁にあったねぇ」「まぁ小学校の半ばくらいから中学の頃になると、朝鮮戦争とかいろんなのがあって、基地は拡大強化され、街はいよいよ喧騒と不健全になるし、淫乱の街に黒人や白人がたむろして、そこを 通っている地域の女たちや女生徒たちが犯されたり、殺されたりする。あるいは小学生まで…」と述べているように、まさに“暗黒の50年代”であった。
2. コザ暴動(1)
コザ暴動は中の町で起こります。ここも飲食店街ですが、もっぱら地元の方を中心に営業している飲食店が集まっています。今もあります。起こったのは1970年12月20日の日曜日。正確に言うと19日の深夜、20日の未明なのです。土曜日の夜というのが大事なところです。何故かと言うとみんなお酒を呑みに来ていたということです。週末でお酒を呑んでいた。昼間とかだったら暴動にならなかったのでは…。
午前1時頃に、胡屋十字路近くで米人車両が沖縄人軍雇用員に衝突するという第1の事故が起こった。暴動というのはしばしば些細なことから起こる。米人車両の運転手も酒気帯びだったが、沖縄人軍雇用員も千鳥足で歩いていた。この第1の事故も些細なものだった。そこに沖縄人向け歓楽街のそばにいた野次馬が集まり始めた。何でこんな時間に野次馬=群衆が集まるのかといえば呑んでいたからで、これが木曜とか金曜だったら人が集まらなかっただろう。

(写真は研修会場風景)
午前2時10分に、第1現場の向かい側で米人車両と沖縄人車両が衝突するという第2の事故が起こる。ここから群衆の行動が無秩序になり、住民による米軍の車両・施設への放火、投石などに発展していった。
午前3時30分に、園田付近で米軍車両という第3の事故が起こる。この方は病院に連れて行かれ入院した。被害状況は、車両破壊が82台(うち米軍人・軍関係車両が79台)。負傷者は88名(うち米軍人・軍属が56名)。建造物損壊は米人学校と米軍雇用員事務所が焼かれた。米軍を匿おうとしたから中の町派出所と諸見里派出所も破壊された。 3. コザ「暴動」(2)背景についてですが、構造的要因として米軍の圧政、復帰の不透明性があり、遠因としては糸満での女性れき殺事件があります。この事件は12月11日に無罪判決となった。この年1970年には米軍関係事件が非常に多く起こった。5月に旧具志川市で女子高生刺傷事件、6月、那覇市で当て逃げした米兵を群衆が囲む、9月、糸満市で今話した女性れき殺事件(12月に無罪判決)と。一方、12月19日には、復帰協主催の毒ガス撤去要求集会が旧美里村で開かれている。この集会に参加したグループが打ち上げで呑んでいたということがあります。コザというのは沖縄のほかの街に比べると、軍と民の距離がかなり近い。ともに暮らしているのだが摩擦も多い。軍民境界都市-コンタクトゾーンと言う-、社会的、空間的に異質なものが、分断されつつ接触するような特殊な都市だった。だからこのような暴動が、例えば那覇とかコザ以外で起こったかといえば、ちょっとと思います。民族とか人種とか職務とか階級とかジェンダーとか出自をめぐって、非対称力関係をもつ社会集団間に緊張関係が走っていて、激しい感情や暴力が発現します。 4. コザ「暴動」の分析(1) 沖縄人の抵抗をどうしても「賛美」する記事が多くて、学術的研究が少ない。そして政治的立場によって「暴動」の呼び方も変わります。暴動とか騒動とか蜂起とかというように。また、いつの、どこの、どのような事態と結びつけるかによって評価の仕方が変わってきます。ですから事実関係資料として米軍公文書を使いながら分析していかなければなりません。手に入るものとして、米国公文書館・沖縄県公文書館所蔵のUSCAR(琉球列島米国民政府)公安局文書があります。1997年時点で非公開も、沖縄市企画部平和文化振興課が1999年に情報公開を請求し、対訳刊行したものがあります。古堅宗光さん主宰の「コザ暴動を記録する会」が2010年4月~12月までかけて、暴動参加・目撃者の語りを集めました。これは沖縄市史編集担当で、今のところ非公開です。12月20日逮捕者の属性は以下の通りです。年齢は非常に若い人たちです。コザ市中心に住んでいる方が多くて、職種はさまざまです。特定の左翼活動家が起こしたというものではなくて、本当に全市民的なものだったということが分かります。

5. コザ「暴動」の分析(2)
「コザ暴動を記録する会」で古堅宗光さんは、複数のゲストに約2時間のインタビューを9ヶ月間で計9回、合計約18時間おこなっている。22名の語り手(うち女性1名)は当時コザで居住もしくは就労しており、年齢、職業は様々である。
語りの例として二つあげる。次のようなもの。
当時の年齢は17~18歳、コザ市在住で設計事務所のアルバイトをしていて、暴動に参加している。「ただあの…よく暴動って言うと、今タイで、凄い暴動起きてて、治安悪いような状況。ああいうイメージじゃないんですよ。っていうのはですね、当時はですね、他に外人車両なんかも結構走ってるのが居て、みんな止められたんです。止められて、これなんかもひっくり返したんだけど、決してこの人たちに危害を加えるとか、そういうこと絶対にしなかったですよ。もう丁寧に「どうぞ降りてください」みたいな。」

参加者みんなで記念写真
もう一人は当時の年齢が30~31歳、コザ市在住でミユージシャン、暴動に参加している。「(沖縄を)『癒しの島』とか何とか言ってるけれども、ね。だから癒しの島だから、暴力沙汰…『アメリカーは怪我人がいなかった』とかさ、何がどうだったとかさ。これ美化じゃない?そういう意味で。で、『やっぱり沖縄の人っていうのも怒る時は怒るんですよね
-』みたいなさ、本土サイドからの目っていうか、その…そういうものがあまりにも書かれすぎて…。」
6. 事実と語りを合わせると
何に怒ったのかを見ると、米軍の圧政に対する不満の爆発です(うさ晴らし?)。陰謀説は説得的ではない、米軍資料からも出てきません。では、何に怒らなかったのかと言うと、攻撃対象を視覚的に弁別したということです。秩序ある暴動、統制のとれた暴動というのはそういうことです。米軍と米兵を弁別する。車は焼いたが米兵には手を出さない(ただし負傷者は存在します)。黄ナンバー(米軍車両)と白ナンバー(沖縄の民間の車)を弁別した(ただし一部破壊しています)。車は燃やしたが店舗の破壊はない。白人と黒人を弁別した。黒人の負傷についての語りがほとんどありません。これは一つには白人街だったからというのもあります。これは大事になってくるのですが、参加者はいったいどこに進まなかったのかということです。黄ナンバー車のないところには進んでいません。さらにセンター通りには入ってない。自警団メンバーによる阻止があったということが「語り」で分かった。沖縄の人が米軍車両を守ったということになります。先ほど述べたように全市民的蜂起なんですけれども、こういう人たちもいたということを知ることは重要だと思います。すなわち蜂起しなかった住民・場所が存在している、コザはそういう複雑な要素を持った社会であるということを分かる必要があります。 7. 「第二コザ事件」私がコザ暴動を語る時、必ず付け加えるのはこの次に「第二コザ事件」が起こったということです。60~70年代に米軍側は人種統合政策を出し、黒人解放運動も活発化してきます。そういう時代背景に白人街の中に黒人兵が入ってきます。人種対立は照屋から白人街に拡散していき、照屋は逆に衰退していきます。 黒人兵の側はあまり消費しないし、白人街でトラブルを起こすので、経営者はそういう人を店に入れたくないということで、経済的に差別が起こってくるわけです。白人を顧客とする経営者・接客者(女性)が黒人営業差別をしていると黒人解放運動組織が差別だと言って糾弾するし、米軍も差別してはいけないとオフリミッツという制裁をする。これが70~71年のことです。 そうして、1971年8月17日に白人街で「第二コザ事件」が勃発します。ゲート通りに集結した黒人集団約50名がセンター通りで人種差別撤廃のデモをおこない、続いてセンター通りの白人向け店舗を荒します。それに対し、店舗関係者・住民ら約100名が黒人集団と対峙し、コザ署に投石します。こういう事件も起こっています。 8. 今なぜコザ「暴動」を語るのかみなさんご承知のように、沖縄県に対する「構造的差別」が未だ残存している。もう一つ重要なのは、沖縄社会に政治的亀裂が内在しているということです。オール沖縄会議が出来ましたけれど、また保守派が盛り返しているということもあります。写真家たちと話しているとよく分かるのですが、「抵抗する」思想と行動が後退しているという危機感を当時のことを知っている方は持っている。だから余計にコザのことを語らなければならないと。だから、「また起こりかねない」、「きっと起こる」という言い方がされます。 ただコザ「暴動」は神話化されてよいのか?ということです。これは違う。暴動のプロセスをきちっと理解した上で評価せねばならない。大事なことはコザのことはいろいろ語られるが、美里およびコザ側の旧市街が衰退している状況の中で地元の想いとか苦境は置いてけぼりで良いのか、地元をどう支えていくのか?ということが重要になってきます。一体、コザ(沖縄市)から何が見えるのか。米軍基地を抱える矛盾が凝縮された都市であると、今もいえるのです。この二つの事件を見比べてみると、<抵抗する沖縄>と<米軍を受容する沖縄>が見えてくる。一方は不満を暴動という形で表現し、もう一方は守ろうとする。この二つがある。ところが第二コザ事件で、そういう人たちも米軍の圧政に対して投石したりして抵抗を示した。沖縄という社会は確かに分裂している、政治的亀裂はあるけれども、それを埋め合わせて「構造的差別」に向かって行ける可能性はある。どう持って行くか。オール沖縄会議もそれで一時盛り上がっていった。本土に対する異議申し立てを沖縄の中で分裂せずに持って行けるか、このことを二つの事件から学び取っていかねばならない。そこをどう支えていくかが重要だと思っています。 いろんな矛盾を抱えた境界都市としてのコザを理解していくことが大事だなと思います。ここには都市の「精神」みたいなのがある。あの街で作り出されてきた生き方の作法みたいなのがあるので、私たちはこれをどう普遍的なものとして理解していくか。実はイタリアのトリエステというところで同じような論議がされている。旧ユーゴとスロベニアの近くにある。イタリアとオーストリアとスロベニアの境界都市です。ここでも独特の都市精神が生まれています。 9. まとめ-コザ「暴動」の語り方最近多いのは“コザ「暴動」で語る”です。1968年から始まる世界的な反体制運動の一環であるとか、復帰前後から先鋭化していく反基地闘争の起点だとか、辺野古や高江での新基地建設反対運動の前例だとかと語ることができるかもしれない。しかしコザ「暴動」自身をもっとしっかりと語ってほしいと思う。“コザ「暴動」を語る”ということです。美化できない側面もある。呼び方にこだわること自身が美化するかしないかという議論です。やはりコザ「暴動」しか語らないのですね、歳の上の人は。第二コザ事件との関連性などを語らない。西成では24回も起こっているのに、コザの場合コザ「暴動」しかない。これをどう評価するのかということは課題です。地元にとって集合的記憶として語り継いでいく価値があるので、勝手に本土に持って来て好きに語るより、どのように返していけるかを考えることが大事です。そして境界都市の「精神」の内実ということが現代的意義だと言えるでしょう。以上で、私の話を終わります。
B. コザ精神(コザ・スピリット)を語る
「コザ暴動を記録する会」を主宰した古堅宗光です。
飛入りで参加いただいた古堅宗光さん

コザを語る時にはコザ暴動を避けて通れないと思っていたので、2010年、コザ暴動40周年の時に、記録に残そうと考えて聞き取りをした。それまでは自分の体験したことがすべてだと思っていたが、その時に分かったのは-当時ぼくも現場にいたのですが-、聞き取りをすることによって、自分の体験と照らし合わせることができたと、総合的に見るために非常にいい経験をさせてもらった。
ぼくにとってのコザ暴動はそれしかない。ところが証言者に聞いても自分が一番コザ暴動を体験しているという思い込みがある。先ほど山﨑先生からトリエステを例に境界都市の話がありました。実はまさにコザも境界都市で、コザ精神-コザ・スピリットと言っているですが-、どういうことかと言うと、小さい時からぼくが住んでいる向かいにはフィリピンのファミリーがいたり、メキシコ系がいたり、黒人、白人、インド、香港など、周りに一杯いた。ぼくの地元の4ヶ所の内3ヶ所はアメリカ人相手の女性に貸していて、彼氏がクリスマスの時はパーティーで、基地の中からいろいろプレゼントを持ってきたり、盆、正月には沖縄の行事で、アメリカ人を呼んで一緒に呑んだり食ったりする、こういうことを日常的にやっていたのがコザなんです。
今でもそうなんですが、基地が金網で隔てられてなかった街、まさに境界都市なんです。民間地域にアメリカ人が入り込んで来たり、そんな中でアメリカ人と一括りにできない。大きく分ければメキシコ系、コザはベトナム戦争当時メキシコ系がたくさんいた。何故かと言うと市民権を取るために米軍に入隊するのです。概念としてのアメリカ人、概念としての日本人、こんなの分けられるハズがない。一人ひとり、各々が持っているアイデンティティとか、やはり違いを見る目を持ってないと、コザのような境界都市では、最初から違って当たり前の人間が周りに住んでいるわけです。これを日本人の考え方、価値観で理解できるハズがない。最初から違いがあって当たり前の世界で育ってきている。
沖縄で米軍の事件・事故が多発している。コザも同じようにたくさん事件があります。特に多いのがホステスへの暴行殺人事件、タクシー強盗殺人とか、ベトナム戦争の頃は頻繁に起きました。境界都市だからこそ、一人ひとりの人間と向き合う。ある意味厳しい見方なんですが、漠然とした民族とか宗教とか性別とか、そんなので相手を見ない、その人個人の持ってる力とか意味とか、コザの境界都市の持ってるポリシーは、違いを認める力を持ってる街だ-それをぼくらはコザ精神と言ってるんですが-、だからこそコザ暴動が起きて、でも死者は出ない、略奪は一切ない、もちろん多少の怪我人はいる。リーダーがいなくても出来たというのは、まさに境界都市の精神、コザ精神だと思います。結局、民主主義の価値にもつながると思う。一人ひとりの個人の価値観を尊重する社会でないと民主主義なんて成り立つわけがない。境界都市の精神をコザ暴動から是非学んでほしい。コザ騒動とかコザ事件とか言わないで、ぼくらはあえてコザ暴動と言ってます。本来暴動というのは、こんなに秩序立ったものではありえずハズがない。境界都市の人間としてのコザ精神の誇りです、ある意味では。これを過去の美談として終わるのはぼくは反対です。そこにはコザ精神があるということを学んでほしいと思います。以上です。
C. コザ市(現・沖縄市)と豊中市はどのようにして兄弟都市となったか
現在、豊中市の副市長をしています田中逸郎です。よろしくお願いします。
さて、1974年に旧コザ市と美里村が合併して沖縄市が誕生しますが、この年

の11月に沖縄市と豊中市が姉妹都市-姉妹ではなく兄(ちょう)弟(でい)ですが-宣言をします。何で1974年に縁もゆかりもないヤマトゥの豊中市とコザ市が都市間交流を始めたのか?それを遡ると1964年-1972年の施政権の返還前です-に、豊中市の竹内善治助役(のちに市長)が沖縄道路事情視察団の一員として訪沖した時、コザ市の大山朝常市長と懇談する機会があった。その時に竹内助役は「豊中の市民も沖縄戦でたくさん死んでいるんです」と沖縄戦の話をした。それを聞いた大山市長から早速豊中市に住んでいる沖縄戦の戦没 者の遺族にと、零石とハイビスカスが送られて来た。
(田中逸郎・副市長 )
それに竹内助役が大変感激しました。当時アメリカ軍の統治下にあった沖縄では、日本の行政事情が分かりにくかったので、翌年の1965年から豊中市がコザ市の職員を国内留学で受け入れるということをスタートさせました。延べで700人ほどのコザ市の職員が毎年-長い方で1年-、豊中の家に泊まって勉強しました。ですから当時、コザ市では「豊中学校」と呼ばれていました。こういうご縁があって1974年に兄(ちょう)弟(でい)都市宣言に至ります。実はこの1974年はぼくが豊中市に就職した年です。この年の4月に就職して11月に兄(ちょう)弟(でい)都市提携です。びっくりして、それから沖縄のことを勉強しました。大阪の大正区にも尼崎にも豊中にも-特に庄内に多い-沖縄出身者がたくさん住んでいる。それは何故なんだろうなと仕事とは関係なく勉強しました。兄(ちょう)弟(でい)都市でもあるし沖縄戦の展示を豊中でやりたいということで、沖縄に出張しました。これが初めて沖縄に行った時です。沖縄市の職員の方とも初めてお会いしました。沖縄の人のやさしさと言おうか、いろいろと案内してもらいました。2年前の2015年に兄(ちょう)弟(でい)都市提携40周年記念事業をおこなった『報告書』をお配りしていますので、また読んでください。 都市間交流で何が一番重要なのは何かなと、そこで学んだのは、トップ同士が仲良くなって交流するというのがあるけれども、そうじゃあないだろう、民衆同士の交流につなげなければ、一過性の、政権によって変わっていくはやりで終わっていくだけで、少しもつながって行かないだろうということで、市民同士の交流につなげて行きたいと事業をやってきました。その一環が豊中まつりの沖縄音舞台です。 しかし、交流するというのは三つのFで終わるのです。Three Fです。ファッション(Fashion)、フード(Food)、フェスティバル(Festival)、それ以上民衆の交流につながらない。ぼくのジレンマなのです。国際交流でもそうです。Three Fで終わらさないにはどうするかということで、コザの方々や豊中の市民の有志で、子どもたちの交流、青年たちの交流、大人たちの交流、これを繰り返し繰り返しやっていく。何とかThree Fを超えて行く。それをしない限りは、人のつながりとか、世界の平和とか、古堅さんの言葉で言えば、違いを認め合って手をつなぐという社会、もちろん本土と沖縄の関係、これを超えられないんじゃあないか。思想的に右の人も左の人もいてもいいけれど、その人の文化とか生き方とか生活文化とか、いろんな交流を通じて友達を増やしていく。 昔は「豊中学校」と言ってましたが、今は「コザ学校」と言って、職員も市民も短い人で2泊3日、長い人で1週間、コザを体験して帰って来ます。もちろん沖縄の子どもたちを毎年100人、豊中でホームステイして交流を続けています。こういうことが、ぼくらが目指していく平和な社会、人間らしい社会をつくるきっかけになるんじゃないかと思っています。 さて、話はこのくらいにして、沖縄音舞台を案内しましょう。

(フィーナーレ)
以上の室内研修を終えて、参加者は沖縄音舞台を見学し、午後6時に現地解散しました。その後も豊中まつりは続き、ぼくたちは解散していましたが、フィーナーレは豊中まつりのHPによると写真のようでした。また、今年はのべ141,100人の方が来場されたとの
報告が載っていました。