『パプアを旅して』
- 國井哲義
- 2018年2月11日
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パプアを旅して
國井哲義
昨年(2017)の沖浦ツアーでは、8月末から9月初めにかけて、23名の参加者でインドネシア領パプアの旅を楽しんだ。今回の旅の主な目的は二つ、第二次大戦中に当地に派遣され、悲惨な運命をたどった旧日本軍将兵の足跡を訪ねることと、先住民の民俗と現状を知ることであった。
まず8月26日、関空(東京組は羽田)からジャカルタまで飛び、空港近くのホテルで一泊した。パプア行きの飛行機の出発は27日の深夜なので、日中はジャカルタ市内の観光に出かけた。チャーターバスで、フランシスコ・ザビエル教会やバハリ海洋博物館を訪問した。
博物館は、もともとオランダ東インド会社の倉庫を改装したもので、インドネシアのいろいろな時代に使われた船の模型や大砲などの武器が展示されていた。また同国の歴史がジオラマで時間軸にそって解説されていた。日本の軍政下にあった1943年7月の東条首相のジャカルタ訪問のニュースを伝える新聞の写真パネルもあった。さらにヨーロッパ列強がインドネシアを植民地化するきっかけとなった、たくさんの種類の香料のサンプルなどの展示も目を引いた。
ジャヤプラの戦跡
夜11時過ぎにジャカルタ空港を発ち、翌28日朝早くジャヤプラに到着。

さっそくチャーターバスで第二次大戦中の1944年4月22日、アメリカ軍が上陸した海岸に向かう。ここはホーランディア(ジャヤプラの旧名)の戦いと呼ばれたニューギニアの激戦地のひとつである。上陸した米軍の兵力は40,000人、対する日本軍は14,600人。ほとんどは兵站の関係者で、戦闘要員はわずかであった。戦いは2か月ほど続いたが、結果は日本軍が10,000人以上の戦死者、戦病死者を出して惨敗した。今では浜辺に米軍の戦車、上陸用の水陸両用の戦闘車両などの残骸が残されている。
小学校訪問
29日は、ジャヤプラ市内の小学校を訪問した。生徒たちはとても人なつこく、サインを求めたり、大きな声で国歌を歌ったりして大歓迎してくれた。
教室に入ると、実に様々な顔立ちの子供たちがいるのに気づいた。先住民系の彫の深い顔立ちの子は、どちらかというと少数派である。聞けば、近年インドネシア各地から移住してくる人が多いとのこと。

バリ在住で元朝日新聞社の箱石さんの話では、色々な理由でインドネシア各地から、住んでいた場所にいられなくなって逃げるようにしてこの地に来た人も多いのではないかという。彼がインドネシア人の知人にパプアに行くと言ったら、一様に怪訝な顔をされたとのこと。何でそのようなところにわざわざ行くのか、というわけである。それほど一般のインドネシア人にとっても、ここは大変な辺境の地で、特別な理由でもなければ決して足を踏み入れたりしないところなのであろう。
ワメナ
30日、ジャヤプラから内陸部のワメナに飛んだ。ここはかつて朝日新聞の本多勝一記者と藤木高嶺カメラマンが先住民の集落に住み込んで生活を共にし、『ニューギニア高地人』を書いた場所からも近い。ガイドのマルセルによれば、「ワメナ」という地名の由来は、先住民の言葉で「ワ」=ブタ、「メナ」=おとなしい、つまり「おとなしいブタ」を意味するという。ヨーロッパ人がこの地にやって来たとき、ブタを抱いた女性に地名をたずねたところ、女性は、抱えているブタのことをたずねられたと思って、「おとなしいブタです」と答えた。それがそのまま地名になったというのである。
空港ビルを出ると、いきなりコテカ(ペニスケース)を着けた男性の姿が目に飛び込んできた。するとマルセルが、写真を撮らないでください、と叫んでいる。彼によれば、なんと日本円にして500万円もの撮影料を請求されることがあるという。
先住民と貨幣経済
思うに先住民にとっては、お金は多ければ多いほど良い、ということなのだろう。なぜこのような法外な「撮影料」を要求するようになったのだろうか。
本多勝一氏の『ニューギニア高地人』は、50年ほど前の当地の先住民の生活や文化を活写したものだが、それによれば、当時子安貝やブタが「貨幣」として流通してはいたが、基本的に自給自足と物々交換の世界であった。外部の人間が足を踏み入れて、貨幣経済を持ち込むこともほとんどない地域だったのである。もちろんそこには、撮影料を要求されたというようなことは一切書かれていない。
また今回の旅では、ジャヤプラに滞在中ほとんど同じレストランで夕食を食べたが、なんとオーナー夫人は只野さんという日本人であった。彼女によれば、この地に初めてやって来た今世紀初めごろまで、先住民の写真を撮っても、金銭を要求されることはなかったという。先住民が写真を撮らせてお金を要求するようになったのは、ここ十数年ほどのことなのである。
おそらくそれは、外部からたくさんの人間が流入して当地にグローバリゼーションの波が押し寄せ、貨幣経済が浸透したことと軌を一にしているのであろう。先住民にしてみれば、自給自足的な生活から、一気に貨幣を媒介にした市場経済の世界に投げ込まれたのである。おそらく彼らはお金の力に驚いたであろう。彼らはまた、見たこともない家電製品やオートバイ、車などを目にして、物欲を搔き立てられたことであろう。
押し寄せてきた新しい世界では、お金さえあれば欲しいものは何でも手に入るし、なければ何ひとつ手に入らない。しかも自分たちには、そのお金を手に入れる手段が何もない。その時、彼らは自分たちの特異な裸文化が、お金になる「商品」であることに気付いたのではないか。
パプア以外の地域から移住してきた人たちにとって、先住民たちは「怠け者」に見えるという。それはそうだろう、彼らは激変する環境の中で、どのように自らを市場経済に適合させてお金を稼げばよいのかわからないのである。手っ取り早い方法としては、観光客のカメラの被写体となって、お金を取ることであろう。彼らはまだ、お金が労働によって産み出された付加価値を表すものであることを理解していないのではないか。だから市場経済の中では、被写体になることがどれほどの価値なのかも理解していないに違いない。しかし何はともあれ、金額は多ければ多いほど良いに決まっている。それが「撮影料500万円」の背景にあるのではないか。
先住民とアルコール
箱石さんによれば、マルセルはわれわれが到着する2日以上前からジャヤプラに来てホテルに滞在していたという。何をしていたかというと、目的はただひとつ、ビールの飲めるレストランを探していたというのである。旅のメンバーが食事時にビールを飲みたがるためなのだが、それにしても彼には大変な苦労をかけさせてしまったものである。彼がやっと探し当てたレストラン(オーナー夫人が只野さん)では、ビールはお茶と区別がつかないようなピッチャーに入れて、目立たないように出されていた。
パプアでは、公にはアルコールの製造と販売が禁止されているのである。これはやむを得ないことかもしれない。先住民にはもともとお酒に類するものが一切なかった。彼らは外部の世界と接触するまで、お酒の味を知らなかったのである。そのようなところに突然アルコールを持ち込めばどうなるか。おそらく多くの者が酒に溺れて、生活が破壊されるに違いない。酒を買う金欲しさに、窃盗などの犯罪が爆発的に増加することも考えられる。酔っぱらって、家庭内暴力が横行するかもしれない。
われわれの社会のように、日常的に酒に親しみ、長い酒の文化の歴史があるところでも、アルコールにまつわるさまざまな問題が日々起こっている。酒など一切なかったところにそれを持ち込めばどうなるか。さまざまな実例が報告されているが、良い影響を報告しているものなどほとんどないのが現状である。
独立運動
ワメナに到着し、ホテルで荷を降ろしてから街を一望できる小高い山にタクシーで上った。ここで意外なものを目にした。インドネシア陸軍の小部隊の駐屯地である。独立運動を警戒してのことだという。
2000年、西パプア住民大会が開かれ、新国家パプアの樹立が宣言されたが、インドネシア政府は2003年、住民の反対を押し切って西イリアン州として自国領に併合した。インドネシアは独立運動に対しては徹底した弾圧をもって臨み、およそ十万人が殺害されたという。しかし現在も、独立を叫ぶ「自由パプア運動」による武装闘争は散発的に続いている。意外なところで、この地の現状の一端を垣間見た思いであった。
市場
帰り道にワメナの市場に立ち寄った。先住民が芋やいろいろな野菜を地面に並べて売っている。市場には100人以上いたと思われるが、コテカを着けて、伝統的なダニ族の恰好をした男性は数人しか見かけなかった。腰みのを着けて上半身裸の女性は一人もいなかった。先住民らしい顔立ちの男女がほとんどだったが、一様にシャツを着てズボンをはいていた。おそらく日常生活のなかで、伝統的な身なりで生活している人の割合は、今ではきわめて少ないに違いない。
ほんのわずかな野菜や香辛料を並べて売っている先住民が目についたが、後で箱石さんに聞いたところでは、彼らの商売の主な目的はガソリン代を稼ぐことなのだという。バイクを走らせるための必需品というわけだ。彼らにも、これだけは自給できない。ワメナはベリアム渓谷という、高い山々に囲まれた内陸部にあるため、物資の輸送が困難で、物価は世界一高いともいわれている。1リットルのガソリンが日本円で何と1,000円の時もあったという。
ダニ族の学校、模擬戦争、焼き石料理、燻製ミイラ

31日、ダニ族の子供たちが通う小学校を訪れた。驚いたことに二人の教師だけで全学年の授業を行なっていた。当然、多くの子供たちは自習ということになる。
教師は全部で8人いるそうだが、その日出勤しているのは二人だけだという。では他の先生たちは何をしているのか。箱石さんによれば、おそらく副業に精を出しているのではないかということだった。日本では考えられないことだが、教師の雇用形態にいろいろあって、多くの教師には兼業が認められているのだという。多くの先住民には、数十年前までは教育を受ける機会がなかったことを考えれば、これでも大きな進歩といえるかもしれないが、次世代を担う子供たちの教育の現状を垣間見たとき、少し不安になった。
小学校を見学した後、近くのダニ族の村を訪問した。数本の木を10mほどの高さに束ねて作った物見やぐらに、男性が立ってこちらを見張っている。やぐらの下にはこれまた槍を持った十数人の男たちがいる。事前に何も聞かされていなかったので、いったい何が起こるのか少々心配になったが、マルセルが手配しておいたダニ族の模擬戦争のパフォーマンスであった。男たちは二手に分かれて、槍を構えて歓声をあげて相手方に突進し、戦争の様子が再現された。
先住民は、『ニューギニア高地人』にも書かれているように、つい最近まで頻繁に異なる部族間や村単位で戦争を行なっていた。財産である女性やブタの「盗難」などが原因で、戦いが起こったりする。戦争といっても、槍や弓矢を武器に、せいぜい数人の死者しか出ないような小規模な戦いである。「儀礼的戦争」と呼ばれることもある。文明社会では、イデオロギーや市場、領土などをめぐって、相手をせん滅するまで戦うことがあるが、彼らはそれほどひどい戦争はしない。
模擬戦争は20分ほど続いて、互いに仲直りして終了した。その後はわれわれと記念写真だ。見れば、男たちは頭に鳥の羽飾りを着け、鼻には猪のキバのピアスをしている。これが彼らの正装なのだろうが、かなりオシャレだ。
われわれは伝統的なダニ族の集落に案内された。板の塀でかなり厳重に周りを囲い込んでいて、その中には藁ぶき屋根の、長方形と円形の家々が並んで建っている。家に囲まれたテニスコートほどの大きさの広場では女性たちの踊りが始まった。掛け声をあげながら広場を何度もグルグル回っている。彼女たちの正装は、下半身は腰みのだけで、上半身は裸である。未婚女性と既婚女性では腰みのの繊維が縦と横で異なっている。頭に羽飾りを着けている女性もいる。一様に背中に植物の繊維で編んだ物入れの袋を頭から下げている。
踊りの後は「焼き石料理」の実演である。まず火を起こすところから料理が始まった。かつてパプアの先住民には、マッチはおろか火打石も存在しなかった。ではどうやって火を起こしたかというと、両足で棒切れを地面に押さえ、下に竹ひごを通して猛烈な速さで交互に強く引っ張るのである。
あっという間に煙が出てきて、竹ひごは焼き切れる。そこに燃えやすい乾燥した枯れ草をあてがうと煙が立ち上り、やがて炎があがった。わずか数分の出来事であった。彼らにとって、火を起こすのは想像以上に簡単なことのようである。その後、焚き火をして、直径10センチほどの自然石が数十個、炎の中で熱く焼かれた。
一匹のブタがギャーギャーと叫び声をあげながら、男に抱えられて引き出されてきた。箱石さんによると、どのような生き物でも殺されるときは不思議と自分の運命がわかって、このように鳴き叫ぶそうである。ブタは二人の男に頭と足を抑えられ、別の男が弓矢で至近距離から心臓を射抜いた。
バナナの大きな葉の上でブタの解体が始まる。腹を切り裂いて内臓を取り出すのに使われているのは、何と竹のナイフと石斧である。おそらく普段は金属製のナイフや斧を用いているのだが、われわれのために昔の料理法を忠実に再現してくれたのかもしれない。
広場の片隅に穴が掘ってあり、その中に草が敷き詰められる。そこに調理する芋や野菜、内臓を抜かれたブタが入れられ、焼け石が投げ込まれる。そしてさらにフタの役割をする草がかぶせられる。草の水分を利用した一種の蒸し料理である。
こうして1時間近く経つと焼け石による蒸し料理が完成した。本多勝一さんも指摘していたが、このような料理法は、容器のない世界では一般的であったと考えられる。容器なしで煮炊きをしようとすれば、これ以外の方法はないからである。
マルセルは彼らに、模擬戦争、踊りなどのパフォーマンスに一式で日本円にして20万円、ブタの蒸し焼きにはオプションで5万円、計25万円支払ったそうである。一連のパフォーマンスの後、広場にはコテカ、石斧、網袋などの彼らの生活物品が並べて売られていた。これも彼らの大切な現金収入となるのだろう。

先住民がかつての、旧石器時代さながらの自給自足の生活に戻ることはもはやありえない。グローバリゼーションの大波が押し寄せてきて、彼らの生活も激変しているのである。この集落の中にも、スマートフォンを持っている者がいた。彼らも現金を稼がなければ、生活ができない時代になったのだ。本多勝一氏が50年前に見たパプア先住民の生活と文化は、今では外国人向けのショービジネスとなって彼らの収入を支えているのである。
われわれが村を立ち去るとき、別の西欧人のグループが到着したところだった。村の男たちは急いで模擬戦争の準備をしていた。
別のダニ族の村で、ミイラを見せてもらった。数百年前のものという。この辺りのミイラのつくり方は独特である。小屋の中で遺体を椅子に座らせて何日も火を燃やし、いぶしてつくるのである。いわば燻製ミイラである。ミイラになるのは村の長老や勇敢な戦士。彼 らは死後もミイラになって村を守ってくれると信じられていたのである。われわれが見たミイラも首に戦闘で矢か槍でできたと思われる穴が開いていた。
ミイラの見学にもひとり500円の見学料が必要で、村人がたくさん物売りに集まっていた。

この旅を計画したとき、われわれはもちろん、『ニューギニア高地人』に書かれているような先住民の生活が今も続いているとは考えていなかった。しかし改めて感じたことは、半世紀という時間の経過と貨幣経済の浸透が、想像以上に彼らの生活を激変させているということだった。