夜間中学その日その日 (550)
- アリ通信編集委員会
- 2018年2月14日
- 読了時間: 4分
42回近畿夜間中学校連合作品展
立春が過ぎたが、季節の移ろいが感じられない。この日も寒い日となった2018.02.11(日)42回を迎える、近畿夜間中学校連合作品展が開かれた。尼崎市の総合体育館が会場だ。美術、習字、手芸、陶芸はもちろんのこと、共同作品、数学、日本語、理科など、夜間中学生の文字やコトバを通して学びの中身が読み取れる作品が展示室にあふれている。毎日の学びから生まれた作品を持ち寄り、展示し、夜間中学生が鑑賞する。学びを確認する夜間中学の大切な行事の一つである。
午前10時から開会行事、生徒集会がおこなわれた。「学校毎の枠を超え近畿は一つ」「ひとりではない、仲間がいる、つながりを大切にすること、生徒会の集まりは大切だ」と尼崎市教育長の挨拶があった。
生徒集会では活動報告のあと、10人の夜間中学生が意見発表をおこなった。
二人の形式卒業者が次のような発表をおこなった。
「2017年4月入学した。はじめは、受け入れてもらえるか不安でいっぱいでであった。自分の過去を語ることに抵抗があり、恥ずかしくて、どうしても説明できなかった。しかし、夜間中学で学ぶ中で、私の悩みは小さいこと、恥ずかしいことではないんだと思えるようにになった。仕事と学校が大嫌いな私がいまでは大好きになっている。生きることはこんなに楽しいものなんだと思えるようになった。学校と子育てをがんばりたい」
「小学校2年までしか学校にはいっていない。履歴書も書くことができず、母に書いてもらっていた。これではいけないと一人で学んでいたが、市がやっている学びの場で夜間中学があることをおしえてもらった。市の人から卒業証書のある人も入学できるかもしれないと連絡をもらい、夜間中学をたずね、入学できた。いろんな人と話をし、みんな苦労した人、苦労してきたからわかりあえる。かけ算の九九もできなかったが、あんたやったら覚えられると励まされ、できるようになった。他人は信用できないと思っていたが、周りの人が信用できるようになった。母も、『考え方がしっかりしてきた』といってくれた。これからの生き方が決まってきた。他府県の人も夜間中学に入学できるようにしないといけない」
夜間中学の学びが原動力に回り始めた日常生活を力強く発表した。
「天王寺夜間中学で学んでいたおばにすすめられて夜間中学に入学した。目の前が拡がっていくのが分かった。人前でも話せるようになった。生徒会活動を通して社会が分かってきました。成長していっているのが自分でも分かった」と3月、卒業を迎える夜間中学生も発表した。
修業年限を一方的に決めてきた教育委員会に、署名活動をおこない、育てる会と共に、交渉をおこない、撤回を求めた(春日)。市の広報車を借りて、夜間中学生募集活動をおこなった(天理)。居住している市や町の教育委員会を訪問して、話しあいをおこなっている(畝傍)。1964年に建てられた校舎は国の耐震基準は超えているが、市の基準には不足している。耐震工事をお願いしているがなかなか実現しない。安心して学べるよう、校舎の建て替えもお願いしている。各地に夜間中学ができていく一方、生徒数が減り、出席率も悪い、大阪市内4校の統廃合が心配だ。統廃合はあってはならない(天王寺)。
これら意見を聞いた夜間中学生はどのように考えたのか、今後のつながりのある、近畿夜間中学校生徒会のとりくみに期待しよう。
奈良の夜間中学合同で胡弓の演奏で「ふるさと」をテーマに、紀伊半島にある田舎での子ども時代の生活、フィリピンそして、移民で渡ったブラジルのふるさとの生活を発表。「今に引き継ぐ」と題して、殿馬場夜間中学の生徒会活動の発表があった。「九州の炭鉱で生まれた。閉山になり、移り住んだ大阪で夜間中学に入ったが、九州には夜間中学がない」との発表があった。

昼食のあと、隣の会場に展示された各夜間中学の学びの中で制作された作品の鑑賞がおこなわれた。
「リース (装飾)」の展示があった。それは昼の子どもたちが遠足で拾ってきた木の実、松ぼっくり、木の枝などの提供を受け、夜間中学生がつくった作品だという。どの作品にも展示される背景があるのだ。展示された自分の作品を前に話しあう夜間中学生の会話がつづいていた。
残念に思うことがある。この作品展示は午後3時過ぎには展示を終え、収納されてしまうという。いかほどの一般市民が訪れ鑑賞していただいたのだろう。
夜間中学生の作品を通して、夜間中学の必要性の訴えは、重要な広報活動である。もっと会期をながく、多くの市民に見ていただきたいということを、皮肉を込め、ある夜間中学生が「会社ではこんなもったいないことはやらない」と語っていた。さまざまな負担が夜間中学現場に行くことは予想できるが、知恵を出し合って実現していただきたい。