滋賀県の雨森芳洲庵にて
- 北口学
- 2018年3月21日
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滋賀県の雨森芳洲生誕地にある東アジア交流ハウス「芳洲庵」訪問いたしました。 今から30年以上も前に朝鮮通信使を御研究されていた故・辛基秀さんや中尾宏さんの運転手をしながら和歌山県海南市の海善寺(「梅渓の父、李真栄(りしんえい)は朝鮮の儒学者で、豊臣秀吉の文禄の役で捕虜となり、後に頼宣に召し抱えられ、紀州藩の儒学者となる。梅渓は和歌山で生まれ、父と共に和歌山市の海善寺で弔われ、、」)や滋賀県のゆかりの地を走り回っていた頃を思い出しました。ちょうど岡山県牛窓の海遊館(「江戸時代、牛窓は参勤交代の大名や朝鮮通信使の寄港地として栄えました。海遊文化館には朝鮮通信使に関する資料が数多く集められています。」)がオープンし、式典に辛さんがメインゲストとして招待されていた時期の数年前ですから遥か昔の若い頃の事。 近年は私が学生を連れて長島愛生園見学の帰路に「対潮楼」と共に寄るおきまりのコース。雨森芳洲と儒学者姜はん(かんはん 漢字が出てこない)の深い友情を描いた『雨森芳洲と姜はん』という単行本を持っていたのですが書庫の中に埋もれてしまっているようです。雨森芳洲の生家が滋賀県にあり展示がされています。存在は昔から知っていたのですけれど今まで行く機会がありませんでした。

滋賀県と渡来人との飛鳥時代あたりまで遡る深い関係は故・沖浦和光先生と10年ほど前にフィールドワークを甲賀エリアでさせていただいた記憶も蘇りました。 受付の方が優しい方でたくさんの資料をいただきました。次回の韓国現代史研究会のみなさんへのお土産ができました。 雨森芳洲は滋賀県で生まれ、対馬で外交官として日本と朝鮮半島との善隣友好に一生を捧げた人物です。また、対馬は対馬藩藩主宗家が徳川幕府との交渉窓口で、友好と平和にとても努力されたそうです。対馬には国立の『宗家文書館』があり、日朝外交史の貴重な資料となっております。 大学で出席を取っていた時、宗という名前の学生が。「出身は?ひょっとして対馬の宗家の親戚?」と聞くと「そうです」と嬉しそうに。 その日の授業予定は吹っ飛んで、秀吉の侵略、「故郷忘じがたく候う」薩摩藩に連れてこられた朝鮮陶工たちの物語。14代目沈寿官氏、長崎大村が当時のアジア最大の人身売買奴隷市場で、多くの朝鮮人・日本人がポルトガル船で売り飛ばされた話、そして韓国文化放送と組んで『アントニオ・コレア』という6時間のTVドキュメンタリー番組制作に私が関わった話などに変更となりました。(ご参照くださいませ http://japanese.donga.com/List/3/all/27/278866/1 )

生徒は大阪で自分の祖先をこれほど詳しく授業で取り上げる私という存在にびっくり仰天した様子。数ヶ月後、ご両親が福岡から大阪に息子の様子を見に来られた折に「ぜひ!」ということで喫茶店でお会いさせていただくこととなりました。 対馬の宗家は徳川400年の当地で唯一、改易やお国替えがなかった大名。明治維新後は貴族院議員で伯爵だったっけなぁ。私の生徒の曽祖父。 なんだか、いろんな事を今日一日の滋賀県「芳洲庵」訪問で思い出しました。 「芳洲庵」では雨森芳洲が善隣友好に尽くしたという展示が多く、秀吉の悪行や通信使の初めの3回は通信使ではなくて、3回目までの名称は、回答兼刷還使とされている。回答とは国書に答える意味、刷還とは日本に残っている朝鮮人の捕虜を送還する事を目的としていた説明はなかったなぁ。 室町時代から続いた善隣友好を秀吉がぶち壊したんだよなぁ。文禄・慶長の秀吉による「人さらい侵略戦争」。NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』(2014年)でも出てきましたが、耳塚・鼻塚など凄惨でひどいもの。 検索キーワードで「朝鮮通信使」「耳塚」など、ぜひご検索して見てくださいませ。
