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夜間中学その日その日 (583)

  • アリ通信編集委員会
  • 2018年10月13日
  • 読了時間: 3分

大阪における開設運動 (第一次)

 髙野雅夫の夜間中学開設運動・全国行脚の足取りは、母校に送り続けた「わらじ通信」でたどることができる。大阪に入った1968年10月11日から、1969年6月5日、天王寺夜間中学開校を果たし、大阪を去る1969年5月8日迄、214日間の記録がわらじ通信に記録している。実際の日数は238日あるが、記録は214日間である。大阪を離れ、東京にでかけていた期間があるからだ。

 ‘68年12月29日から’69年1月12日迄、年末、年始の期間、東京に帰っている。もう一つは‘69年4月16日から4月21日まで当時大教組の五島庸一教文部長を東京の夜間中学に案内した期間があるからだ。

 ‘68.10.11~12.28の期間(79日)。この期間(を第一次と呼ぶ)髙野雅夫はどんなとりくみをしたかを見ておく。夜間中学について、認識が全くない当時の教育行政や、社会の状況の中、これにどのように切り込み、夜間中学開設に踏み切らす一連の取り組みは、50年後の今、参考にすべき示唆に富む内容を提起していると考える。

 証言映画「夜間中学生」のフィルムを背に、文集「ぼくら夜間中学生」とビラを手に、上映運動、ビラ配り、をしながら、様々なところに足を運んでいる。

 大学関係22カ所延べ26回。高校は13カ所、中学は5カ所延べ11校。大阪府教委、大阪市教委など教育行政9カ所延べ13カ所。大阪教職員組合(大教組)、大阪市教組をはじめとする教職員組合、6カ所延べ14カ所。大阪市議会、府議会議員4カ所。大学教員5回。その他11カ所延べ13回。毎日新聞・産経新聞・関西テレビなどマスコミ 6カ所延べ10回。小林晃宅4回。心斎橋をはじめ、集会で、ビラ配りを6回おこなっている。延べ119カ所に働きかけている。そして 48回の上映で、8346人が鑑賞している。

 この第一次の期間は、夜間中学を理解し、開設運動に大きな力を発揮する状況は一部を除いて、生み出せていない。その一部というのはマスコミであれば、

 15回全夜中研大会の神戸開催を前に桂米朝司会の『はーい、土曜日です』で夜間中学を取り上げた、関西テレビの番組が一つだ。心斎橋でビラ配りをしていた髙野さんに接触した、毎日新聞社会部の伊藤記者。小林晃君の西野夜間中学入学を扱った、『越境かまいません』の記事を書いて、大阪の教育行政に揺さぶりをかけた記者だ。

 「はーい、土曜日です」を視聴した小林晃さんが、番組放送中にテレビ局に電話をかけてきた。「私も夜間中学に通いたい」と。生き証人が声をあげた。この電話を受けた番組ディレクターと髙野雅夫氏が番組終了後直ちに、小林君の家に車を走らせた。

 点と点がつながり、線となり、番組が創られ、電波が飛ぶ。それを受けた小林君が明確な反応を返した。この反応をキャッチし次の行動を起こす。これらは偶然に生起したものではないという。必然があって生まれたものだ。その必然をどう創るかが重要だと髙野さんは言う。

 この時期、様々な仕掛け、組み立てが独立して進んでいるが、マスコミが取り上げ、独立したとりくみが相補性を発揮し、大きな力を出現させていくのは、‘69年1月13日、大阪に戻り、二次のとりくみの展開に依ることになる。大教組中執の五島教文部長に決断を迫る髙野雅夫の詰めよりは、TBSが撮影した「浮浪児マサの復讐」の映像で確かめることができる。それを真正面で受け止めた、中川督之助書記長、五島教文部長ら当時の執行部の決断が山を動かすことになった。

 教育運動としての夜間中学開設を私たちは教訓とすべきでないか。

左 五島庸一 右 持永保 大教組中執(1993.11.03「夜間中学開設25年さらに増設を」集会で)

 
 
 
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