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夜間中学その日その日 (587)

  • アリ通信編集委員会
  • 2018年11月19日
  • 読了時間: 3分

畝傍夜間中学文化祭(第1回)

 「公立夜間中学30周年を迎えるにあたり、私たちは今年初めて文化祭を開催します。生徒の力で手作りの意義ある文化祭にしたいと思っています」こんな案内状をいただいた。「生徒の手作り」この言葉に引かれて参加した。2018年11月18日のことだ。

 開会予定時刻10時前、運動場には人だかりができている。夜間中学の横を走る近鉄電車からよく見える。畝傍中学(昼)の吹奏楽部の子どもたちがスタンバイ。オープニングセレモニーが始まろうとしていた。橿原自主夜間中学時代の学習者も何人か元気な顔を見せている。

 校舎内に入ると廊下や部屋には、掲示物が所狭しと掲示されている。生徒会新聞は手書きの壁新聞だ。文化祭のあと、1回きりでたくさんの掲示物が廃棄されてしまう学校が多いが、ここは違う。保存し、繰り返し掲示をする。入学してきた夜間中学生も先輩からその歴史を引き継ぎ、今を学び、次に受け渡していく。日本の近代史から書き始めた手作りの年表も、だんだん付け加えられ、伸びていく、その掲示物がある教室はこの日、「お国自慢料理」のブーツになっている。ブラジル「パステオ」、フィリピン「タボタボ」、韓国「チャプチェ」、中国「餃子スープ」、日本「鯛めし」と夜間中学生の故郷の料理が準備されている。

 夜間中学生は「いらっしゃいませ」「おいしいですよ」「ありがとうございます」。私の場合、どことなくぎこちない「ありがとうございます」の声に比べ、自然に声が出ている。料理を作っている人からも声が聞こえてくる。生活に生きる学びが展開されている。

 廊下の突き当りの部屋は、1991年の開校式を行った部屋、大教室では夜間中学生がマイクをもって、話している。

 「地域の催し、『夢の森フェスティバル』で夜間中学があることを知った。前川(喜平)さんが夜間中学の入学の変更をしてくれたから、夜間中学に入学できた。ここは、心の許せる仲間が学んでいる。自分はこのようなきっかけがあって夜間中学にたどり着けた。たどり着けていない人が自分の周りにも多い。その人たちに夜間中学を届けたい」インタビューアーの問いかけにこのように答えた。一人だけでなく、事前に、収録されたインタビューの映像が流れている。その映像の途中から、本人が登場、その続きを語り始める。さっきまで料理をしていた夜間中学生が、その姿で登場する。自然な流れだ。

 「夜中は第2の家族です。娘も一緒に学校に来て、娘が悩んでいることを夜間中学生に相談し、支えてもらった。来年卒業するが、これからも夜間中学を守り続けたい」と語った。

 マダン劇もあった。マダンは朝鮮語で「広場」の意味。大教室はマダンに早変わり、観客もその劇に引っ張り出されて、参加していく。それも自然に参加している。この文化祭全体の場の雰囲気から生み出されているのかもしれない。

 この日の参加者は約300人、いま畝傍夜間中学の学習者は、25人。一人何役もこなしながら、文化祭を運営されていた。教員も、「夜間中学育てる会」のスタッフも縁の下の力持ちに徹しておられた。

 ご苦労は計り知れないが、この文化祭を経て大きな力を獲得されたのではないだろうか。さわやかな印象だ。

 
 
 
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