「沖縄通信」第131号(2018年11月)
- 西浜 楢和
- 2018年11月26日
- 読了時間: 18分
古い話ですが、ぼくは今年5月27~28日に開かれた日本キリスト教団沖縄教区総会を傍聴しました。その総会会場で、女性牧師から「西浜さん!最近、私のところに『沖縄通信』が送られてこないんだけど、もう見捨てられたのかしら」と声をかけられました。「ごめんなさい。送ってないのではなくて発行出来てないのですヨ」と答えたのです。そうです、この『沖縄通信』は、1月の第130号を最後に出せていません。もう10ヶ月も滞っているのです。やっと今回、11月号を発行出来ることになりました。
去る10月12日、東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会は第16回公開シンポジウムを龍谷大学で開きました。「なぜ、琉球遺骨返還請求訴訟を闘うのか-学知の植民地主義を問い、琉球人の尊厳回復を目指して」が今回のテーマです。シンポジウムでは、松島泰勝さん(龍谷大学教授)、山内小夜子さん(真宗大谷派解放運動推進本部委員)、冨山一郎さん(同志社大学教授)、丹羽雅雄さん(弁護士)、出原昌志さん(アイヌ・ラモット実行委員会共同代表)によるパネルディスカッションもおこなわれましたが、ここでは松島泰勝さんによる基調報告「なぜ、琉球遺骨返還請求訴訟を闘うのか-学知の植民地主義を問い、琉球人の尊厳回復を目指して」をレポートします。文責はすべて西浜にあります。

なぜ、琉球遺骨返還請求訴訟を闘うのか-学知の植民地主義を問い、琉球人の尊厳回復を目指して-
形質人類学が専門の京都帝国大学助教授・金関丈夫(かなせき たけお、1897年~1983年)は、1928~29年に琉球人遺骨を今帰仁村の百按司(モモジャナ)墓から持ち出しました。ここから今回の遺骨問題が始まります。金関は盗掘した遺骨を「人骨標本」として京都帝大に26体(男性15体、女性11体)、台北帝大に33体(男性19体、女性14体)寄贈します。百按司墓琉球人遺骨の持ち出しは、門中関係者、地域住民等の了解を得たものではありません。1879年の琉球併合後、警察を含む行政、教育関係の上層部の大部分を本土(ヤマトゥ)からやって来た日本人が専有し、皇民化教育等の同化政策が実施された植民地体制下における盗掘です。金関はまた第一中学校105人、女子師範学校の生徒113人の手掌紋を採集し、女子師範学校生徒の体臭調査もしています。百按司墓以外にも今帰仁城、中城城、瀬長島などからも遺骨を採取しています。中城城址の洞にあった甕棺内には女性骨、小児骨が合葬され、「道光3、11月、父比嘉」と墨書されています。瀬長島では自然洞内遺骨を収集しています。金関が盗掘した遺骨は琉球の風葬によって葬られたのであり、金関が考える「無縁塚」ではないのです。盗掘は金関個人の問題ではなくて、1928年、帝国学士院より研究費の一部が補助され、金関の指導教授・足立丈太郎が琉球人の体質人類学的研究の必要性を金関に説いて琉球に派遣しました。ですから京都帝国大学自体が関与した「大学の問題」であると位置付けることができます。その結果、1930年に金関は京都帝大から「琉球人の人類学的研究」によって医学博士を授与しています。金関の別の指導教授・清野謙次の門下生である三宅宗悦は1933~34年に奄美大島から80体、沖縄島から約80体の遺骨を収集します。1935年に三宅と中山英司は喜界島から70体、徳之島から約80体の遺骨を収集し、それは「清野コレクション」(総数約1,400体)の一部となっています。同コレクションに「沖縄島から72体、奄美大島から263体の遺骨」と『古代人骨の研究に基づく日本人種論』(清野謙次著、岩波書店、1949年)に記載されています。その後、1936年に金関は台北帝大医学部教授に就任します。同年7月、霧社(むしゃ)において発掘をおこない、タイヤル人遺骨100体余りを採集し、漢民族の「廃墓」等からも多数の遺骨を収集しました。 (筆者注:タイヤル人)タイヤルは台湾原住民の中でも2番目に多い8万5,000人の人口規模を持つ。居住地域は台湾の北部から中部にかけての脊梁山脈地域。 1938年に台中州霧社および内横屏のタイヤル、39年に阿里山のツオー、そして新竹州ガラワン社等のサイセット、高雄州ライ社のパイワンにおいて生体調査を実施しています。霧社事件(1930年)のリーダーであったモーナ・ルダオの遺体も金関によって台北帝大に運ばれました。同遺体は戦後、国立台湾大学に引き続き保管されていましたが、1973年、霧社にルダオの遺体が返還され、副葬品とともに棺桶に収めて埋葬されました。 (筆者注:霧社事件)1930年10月27日に台中州能高郡霧社た台湾原住民による日本統治時代後期における最大規模の抗日闘争。霧社セデック族マヘボ社のリーダーであったモーナ・ルダオを中心とした6つの社(集落)の男たち300人ほどが、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校で行われていた小学校・公学校・蕃童教育所の連合運動会を襲撃。日本人のみが狙われ、約140人が殺害された。現地の警察には霧社セデック族の警察官が2名おり、彼らは事件発生後にそれぞれ自殺。その後の日本軍の反攻により、蜂起した6社の約1,000人が死亡し、生存者約550人は投降した。 戦後、1950年に金関は九州大学教授に就任します。1954年に波照間島住民の生体計測、1955年に与論島住民の生体計測、人骨調査、考古学的調査をおこない、1956年に喜界島で生体計測、沖永良部島で人骨を採集しています。金関は自らの研究を「人種学」と称しており、「人種学」の知識によって人類集団の生物学的繁栄に貢献できるとともに、優生学の根拠を提供することが可能であると考えていました。金関が考える「人種学」とは、人類の地方的集団を自然科学的、生物学的に考察し、その集団の特質を明らかにする研究です。金関は論文「皇民化と人種の問題」(『台灣時報』1941年1月号)で「ナチスが北欧種の純血を護ろうと云うのは當然のことと云わなければならない。且つ、之れは種族の優秀性を確保する上に必要な手段であるのみならず国家の統一の上に最も有効な方法でもある」と書いています。日本帝国主義の拡大とともに「清野コレクション」が増加していきました。特に1928年以降、「満州古代人骨」「琉球人遺骨」が増加します。清野も東亜考古学会の支援の下、中国「満州」において石器時代から漢時代の遺骨を盗掘しました。(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による日本統治時代後期における最大規模の抗日闘争。霧社セデック族マヘボ社のリーダーであったモーナ・ルダオを中心とした6つの社(集落)の男たち300人ほどが、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校で行われていた小学校・公学校・蕃童教育所の連合運動会を襲撃。日本人のみが狙われ、約140人が殺害された。現地の警察には霧社セデック族の警察官が2名おり、彼らは事件発生後にそれぞれ自殺。その後の日本軍の反攻により、蜂起した6社の約1,000人が死亡し、生存者約550人は投降した。 戦後、1950年に金関は九州大学教授に就任します。1954年に波照間島住民の生体計測、1955年に与論島住民の生体計測、人骨調査、考古学的調査をおこない、1956年に喜界島で生体計測、沖永良部島で人骨を採集しています。金関は自らの研究を「人種学」と称しており、「人種学」の知識によって人類集団の生物学的繁栄に貢献できるとともに、優生学の根拠を提供することが可能であると考えていました。金関が考える「人種学」とは、人類の地方的集団を自然科学的、生物学的に考察し、その集団の特質を明らかにする研究です。金関は論文「皇民化と人種の問題」(『台灣時報』1941年1月号)で「ナチスが北欧種の純血を護ろうと云うのは當然のことと云わなければならない。且つ、之れは種族の優秀性を確保する上に必要な手段であるのみならず国家の統一の上に最も有効な方法でもある」と書いています。日本帝国主義の拡大とともに「清野コレクション」が増加していきました。特に1928年以降、「満州古代人骨」「琉球人遺骨」が増加します。清野も東亜考古学会の支援の下、中国「満州」において石器時代から漢時代の遺骨を盗掘しました。
2. 自己決定権としての遺骨返還運動
そこで、私はアクションを起こすことにしました。2017年5月、京大総合博物館に対して百按司墓遺骨の実見と質問への回答を求めましたが、全て拒否されました。また『琉球新報』、『沖縄タイムス』、『東京新聞』、『京都新聞』等からの取材も拒否しています。
京大総合博物館の回答は「すべての館蔵資料について、収蔵状況等の個別の問い合わせには応じておりません」というものです。なぜ問い合わせに応じないのかとの理由の説明はせず、議論、対話を拒否しています。
2017年8月、私は山極壽一・京大総長に対して、琉球人遺骨返還に関する『要望・質問書』を提出しました。京大大学院理学研究科自然人類学研究室のHPには「自然人類学研究室は『清野コレクション』と呼ばれる日本屈指の発掘人骨資料を所蔵しています。この資料は日本列島におけるヒト集団の変遷とその生活様式の研究に大きな役割を果たし、多くの研究者が利用に訪れています」と記されています。「清野コレクション」を個人のものだとしながら、これを「日本屈指の発掘人骨資料」として大学法人の所蔵品とするという京大の欺瞞性をここに見て取ることができます。また、私は別の方法として2017年8月、『人骨標本番号毎に記録された文書』に関する京大法人文書開示請求をおこないました。そして同年11月に閲覧しました。700ページほどの文書ですが、琉球人遺骨に関する法人文書は1件のみでした。それは、金高堪次の「琉球国頭郡運天に於て得たる現代沖縄人人骨の人類学的研究」(『人類学雑誌』第44巻第8号、1929年8月)というもので、「現代沖縄人」とあります。百按司墓のは500年ほど前の骨なのです。松島泰勝さん京大の立場は、「清野コレクション」に係わる文書は清野個人のものであって、京大法人とは無関係であり、情報公開の対象にはならない、と私は言われました。 さらに同年12月、私は先ほど述べた自然人類学研究室に対して骨骼閲覧を申請しました。「申請書を受け取りましたが、閲覧ご希望の標本は当研究室の管理資料に存在しません」との回答でした。なぜ存在しないのか、いつどこに移動させたのかという質問には未回答です。しかし、同研究室所属研究者の池田次郎氏が琉球人骨(運天の渡久地、徳之島、喜界島の人骨、三宅他が収集した人骨)を利用した英文の論文を作成しています。「ある」のに「ない」という回答をしているのです。京大は市民などに対してこのような対応をするので、2017年9月、照屋寛徳・衆議院議員が国政調査権を発動し、文科省を通じて京大に対して百按司墓琉球人遺骨に関する照会をおこないました。そうすると、京大は初めて同遺骨の保管を公式に認めて、「遺骨はプラスチック箱に保存している。同遺骨に関する研究成果については把握せず、遺骨リストも作成していない。京大に設置された『アイヌ人骨保管状況等調査ワーキンググループ』のような組織をつくる予定はない」という回答をしました。研究にも利用せず、リストも作成していない遺骨をなぜ京大は、保管し続けるのでしょうか。2017年4月、琉球民族独立総合研究学会は、国連の人権高等弁務官事務所に対して「百按司墓遺骨」返還の正当性を主張し、また2018年4月には、国連の先住民族に関する常設フォーラムにおいて本問題について訴えました。同年1月、東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会も「琉球人・アイヌ遺骨返還問題にみる植民地主義に抗議する声明文」を発出しました。同年2月、照屋議員は『琉球人遺骨の返還等に関する質問主旨書』を日本政府に提出しました。政府の回答は、遺骨返還運動を認めないもので、学知の植民地主義を正当化するものとなっています。
同年2月、AIPR(琉球弧の先住民族会)がインドで開催されたAIPP(アジア先住民族連合)の評議会に対して、琉球人遺骨問題に関する松島の報告書を提出しました。
同年3月から、喜界島93例、徳之島92例、奄美大島80例、計265例の遺骨返還を求める「京都大の奄美人遺骨返還を求める会」が活動を開始しました。東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会シンポに奄美大島在住の大津幸夫氏が参加され、同島の原井一郎氏とともに返還運動を取り組んでいます。
同年3月、照屋議員は京大総長に対し内容証明付きの公開質問状を2回提出し、詳細な遺骨情報とその返還を要求しました。それに対し、京大は照屋氏の質問にはほとんど回答せず、今帰仁村と遺骨に関する協議をしているとのみ述べています。
この取り組みは、アイヌ民族と連帯するウルマの会(まよなか しんや氏)、ガマフヤー(具志堅隆松氏)、目取真 俊氏、高良 勉氏、当真嗣清氏、安仁屋眞昭氏、『月刊琉球』編集部、「命どぅ宝 琉球の自己決定権の会」、琉球民族独立総合研究学会、東京琉球館、一坪反戦地主会関東ブロック、沖縄文化講座等にも関心が広がり、ともに遺骨の返還、再風葬を求めています。

ところで、2009年以降、米軍基地の県外移設案が拒否され、琉球では「沖縄差別」を主張するようになりました。琉球併合が「条約法に関するウイーン条約」違反であるとの問題提起があり、そして1850年代に琉球国がアメリカ、フランス、オランダとの間で締結した修好条約の原本-今、日本政府が持っている-の返還も主張しています。しまくとぅば復興運動が活発になり、「イデオロギーよりもアイデンティティ」を唱えて知事に選出された翁長氏が国連で「自己決定権」を主張しました。ですから、今回の取り組みは脱植民地化としての基地反対運動という一連の流れの中での遺骨返還運動であるということが出来ます。
先ほど述べた「京都大の奄美人遺骨返還を求める会」は今年5月18日に内閣総理大臣・安倍晋三、文部科学大臣・林 芳正宛に次のような『京都大学収蔵の奄美人遺骨の早期返還を求める要望書』を提出しました。
京都大学は戦前、アイヌ・沖縄と同様、奄美群島からも大量の奄美人遺骨を採取し、現在、大学内の総合博物館内に放置した状態にある旨聞き及んでいます。私たち奄美住民は260件を超すと言われる奄美人遺骨の採取地などの詳細を明らかにするよう大学側に求めていますが、貴職からも迅速な調査、回答を促していただきたい。
奄美人の遺骨は戦前、主に風葬跡からの持ち出したものと見られています。
従ってすでに遺族等が判明しない状況と考えられ、遺族調査の一方、採取地自治体と集落への説明会の開催をおこなうよう、大学側への指導をお願いしたい。
奄美では過去、風葬や改葬といった特有の葬儀形態、祖霊観を有してい ました。従って今日も祖霊に強い敬慕の念を抱いています。このため遺骨返還に当たっては京都大学自身が現地で住民との調整と返還作業に当たり、再埋葬するよう指導いただきたい。
また返還・埋葬に当たっては該当自治体に対する予算措置、加えて地域 住民の心の拠り所となる空間・モニュメントの建設を京都大学側の支弁でおこなうよう、指導を賜りたい。
3. 世界の先住民族による遺骨返還
遺骨の先住民族への返還は、現在、世界的な潮流となっています。アメリカでは、1990年に「ネイティブ・アメリカン墓地の保護と返還法」(NAGPRA)が制定されました。これはネイティブ・アメリカン、ネイティブ・アラスカン、ネイティブ・ハワイアンを対象に、連邦政府の補助金を受けた博物館、研究機関等に対し、収集した遺骨や副葬品などの先住民族への返還を定めています。また遺骨や副葬品の売買、輸送をした違反者には罰金を科し、遺骨返還にあたって連邦政府は財政的補助をおこなうとしています。
かつてアメリカでは、「西部開拓」の過程で遺骨が盗掘され、先住民族に対する差別、排除を正当化する「科学的研究」がおこなわれました。このことに対し、スミソニアン博物館は2010年12月31日までにネイティブ・アメリカンの4,330体の遺骨(全体の4分の3)、99,550埋葬品(全体の半分)を返還しました。
イギリスでは、2004年に制定された人体組織法において、植民地主義時代(100年前から200年前)に蒐集された先住民族の遺骨を含む遺体組織は研究目的での保管に適さないとされ、その親族、文化コミュニティ、管理者、学術組織に遺体の請求権を認めました。2005年、英政府は次のような「博物館等が保有する遺骨類の取り扱いに関するガイドライン」を発出しました。「現地住民の承諾を得ずに持ち出しただけでなく、遺骨がイギリスの植民地支配の中で集められただけでも決して対等な関係ではなく、このことを踏まえて解決策を検討せよ」と。また同ガイダンスでは系譜上の子孫とともに文化的共同体をも遺骨の返還先として想定しています。

2006年、大英博物館等はアボリジナルに対する遺骨返還の要求に同意しました。
一方、琉球においては1996年以来、琉球人は国連の諸会議・委員会、先住民族関連の国際会議に参加して、琉球における植民地主義を批判し、脱軍事化、脱植民地化を自らが有する自己決定権に基づいて主張してきました。これには国連NGO、琉球弧の先住民族会、市民外交センター、糸数慶子参議院議員、翁長雄志知事らの活動がみられます。私も1996年に市民外交センターのメンバーとして国連先住民族作業部会、2011年に国連脱植民地化特別委員会にグアム政府代表団のメンバーとして報告し、活動してまいりました。 2007年、国連は「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択しました。「第12条 宗教的伝統と慣習の権利、遺骨の返還」では次のように言います。 し、実践し、発展させ、教育する権利を有し、その宗教的および文化的な遺跡を維持し、保護し、そして私的にそこに立ち入る権利を有し、儀式用具を使用し管理する権利を有し、遺骨の返還に対する権利を有する。通じて、儀式用具と遺骨のアクセス(到達もしくは入手し、利用する)および/または返還を可能にするよう努める。 2008年以来、国連の諸会議において琉球人が先住民族であると認められ、琉球の歴史・文化教育の実施、「人種差別」としての米軍基地の押しつけの改善を日本政府に勧告しています。ですから、先住民族としての琉球人の遺骨が盗骨され、それが現在でも京大に保管されているという事態は国際法上の問題であるのです。
4. 「学知植民地主義」の何が問題か 京都大学は「形質人類学に基づいた専門的知識」を遺骨実見の条件としていますが、これは恣意的な解釈が可能な「専門性」です。専門家でないとなぜ実見(拝み)が許されないのでしょうか。京都大学は琉球人遺骨に対する「絶対的な所有意識」を持っていますが、本来、遺骨は京大のモノではありません。ここには、研究対象や自らの研究成果に対する欲望、指導教授への忠誠心が見られますが、これは遺骨、琉球人の信仰や慣習等に対する敬意の欠如があり、琉球人の自尊心への攻撃であります。会場風景琉球人遺骨の盗掘とその保管は、研究における倫理上の問題です。国内法-刑法上の犯罪で、窃盗物の保管も共犯-や国際法違反であるとともに、琉球人の信仰、生活、習慣に対する破壊行為であって、人権侵害問題だと思います。

先祖の骨が本来あるべき場所から離れ、供養が受けられないことは祖先と子孫との紐 帯を断ち切り、琉球人の精神的生活を危機的事態に陥れることになります。 琉球人は遺骨を門中等の親族墓である亀甲墓、破風墓、洞窟墓等で埋葬します。清明祭や一六日祭等の先祖供養の儀礼において祖霊と交流し、門中や親族間、先祖と子孫との絆を強めてきました。琉球人にとって遺骨は先祖のマブイを象徴するものとして不可欠な存在であります。 (筆者注)清明祭(シーミーさい)、一六日祭(ジュウルクニチーさい):清明祭は門中墓に一族が集まり、各世帯が持ち寄った重詰料理や酒、花をお墓に供える。その後、みんなでお供え物をいただく。ピクニックのような感覚でおこなわれ、親族の親睦の場にもなっている。この祖先供養の行事は、18世紀中頃、中国から伝来した。沖縄島の一部、宮古・八重山では清明祭よりも旧暦1月の一六日祭が盛大におこなわれる。 また、「問い合わせ」への回答拒否は何を意味するのでしょうか。これは琉球人を対等な人間として扱わない、明らかな琉球人差別です。琉球の民意を政府に訴えても、辺野古・高江に基地建設を強行するという「米軍基地問題」との共通性を、ここに見て取ることができます。「米軍基地問題」に見るように、琉球人は自らが生きている間、植民地支配されるだけでなく、死してニライカナイに行ってからも日本による植民地支配を受けるのです。遺骨保有、先祖供養を日本政府、大学が拒否できる体制にあると言えます。 研究者が自由に琉球人の遺骨を持ち出し、博物館や大学に保管することが許されるなら、琉球人の信仰、慣習、生活は存立できません。遺骨も人体の一部です。再埋葬によってモノから人になり、生者との関係性が回復します。死者から祖先へ、です。京大は琉球人遺骨を「コレクション、標本」等の研究対象物として取り扱っていますが、琉球人にとって遺骨は、伝統的な信仰、生活、習慣にとって不可欠のものなのです。

出原昌志さん 2017年11月13日、私は「コタンの会」代表でアイヌ民族の清水裕二氏、京都新聞の岡本晃明論説委員とともに京大に行き、アイヌ、琉球人の遺骨について問い合わせをしました。事前に訪問の意志を伝えました。総長室がある建物の玄関ホールに入ることはできましたが、警備員の目の前に置かれた内線電話の使用が認められず、松島の携帯電話で外線を通じてアイヌ、琉球人の遺骨担当部署である総 務課に電話することを命じられました。担当職員は私たちの前に現れず、清水氏が求めた京大による『アイヌ人骨保管状況等ワーキング報告書』の手交も拒絶しました。さらに清水氏との名刺交換に対しても「その必要はない」として拒否しました。これは大学による明らかな民族差別であります。 結びにかえて-どのように裁判で琉球人の尊厳を回復するのか 台湾における事例を紹介します。私が代表を務める琉球民族遺骨返還研究会と連係しながら台湾で活動している中華琉球研究学会が、立法院の高金素梅委員(タイヤル人、靖国訴訟の原告)を通じて台湾原住民族と琉球人の遺骨返還を台湾政府教育省に求めました。 (筆者注:高金素梅)タイヤル名はチワスアリ。著名な女優として活躍の後、2001年末に立法委員(日本の国会議員に相当)に初当選。「原住民族基本法」を立法化させるなど、少数民族の権利獲得のために尽力。2003年、日本の台湾植民地化時代に最前線へ送られた原住民の「高砂義勇隊」の遺族、および韓国、沖縄の軍人遺族と連帯し、日本政府と小泉首相、靖国神社に対して訴訟を起こす。2005年には57名の原住民代表を率いて国連において「日本は歴史に対し無責任な国家である」と訴えるなど、活発に活動している。 2017年8月、台湾政府教育部は、国立台湾大学所蔵の琉球人遺骨63体を返還するとの意向を沖縄県に伝え、現在、沖縄県教育委員会、今帰仁村教育委員会を通じて同遺骨の返還作業が進んでいます。返還された場合、沖縄県立埋蔵文化財センターに一時保管された後、今帰仁村教育委員会の管理下に移される予定です。 一方、これに相反するかのような京都大学の対応です。決して許されるものではありません。そこで、私たちは京都大学に対し、琉球人遺骨の返還を求める訴訟をおこなうことにしました。

丹羽雅雄弁護士を主任に弁護団を編成し、来る12月4日(火)に京都地裁に提訴します。この訴訟は、琉球人の自己決定権に基づく脱植民地化の具体的な方法であり、過程です。ご注目、ご支援をお願いします。丹羽雅雄弁護士当日の夜には午後6時30分より、龍谷大学響都ホール(京都アバンティ9階、JR京都駅 八条口前)において報告集会を開きます。どうぞご参集ください。