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夜間中学その日その日 (597)

  • 『生きる 闘う 学ぶ』編集委員会
  • 2019年2月15日
  • 読了時間: 3分

第1部「夜間中学生の主張」

 「大阪の夜間中学は髙野雅夫が作ったとよく言われますが、それは嘘です。確かに初めに呼びかけたのは、俺たちかもしれない。しかしその呼びかけに応え、名乗り出た8人の仲間が夜間中学をつくったのだ」。髙野雅夫さんはこのように言う。

 「大阪では解放教育が進んでおり、同和教育や民族教育をちゃんとやっておりますから、そんな子はひとりもいませんよ」と教育行政の担当者は誇らしげに、髙野さんに言ったと著書に書いている。

 大阪教職員組合、大阪市教職員組合部落解放同盟、各労働組合、各種団体をはじめ、大阪教育大学、社会事業短期大学、大阪市立大学などしらみつぶしにまわる一方、心斎橋筋に立ちビラをまき、義務教育未修了を見つけ出す作業を実践した。テレビ出演をきっかけに、「夜間中学生」が名乗りでた。1968年11月23日午前9時放送のテレビ番組「ハイ、土曜日です」を見た小林晃さんが関西テレビに電話をかけてきた。生き証人が名乗り出たのだ。大阪府内で唯一残っていた、岸和田市立岸城夜間中学では受付けてもらえず、やむなく神戸市の丸山中学西野分校が入学を認めた。このことを書いた毎日新聞「越境かまいません」の痛烈に皮肉った記事が現れた。当時、越境克服に力を注いでいた大阪府と大阪市に対する問題提起と同時に夜間中学開設運動に大きな弾みとなる記事となった。

 小林晃さんをはじめとする8人の名乗り出が夜間中学を創った。1969年6月5日、天王寺夜間中学入学式当日89名の夜間中学生が入学式に駆け付けた。校門前で待ち受ける髙野さんはどんな気持ちだったろう。

 次々と現れる入学生。名古屋で天王寺夜間中学入学式を伝える小さな記事を見て名古屋から新幹線に飛び乗り駆けつけた、奥村さん。荒川九中の後輩で行方不明になっていた鈴木さんと校門で再会を果たすこんな出来事があったという。

 48年後、大阪人権博物館特別展の映像収録で、髙野さんに入学式当日の感想を再び尋ねると「ざまーみやがれ」が返ってきた。

 夜間中学卒業生と、義務教育未修了者の開設運動で誕生した夜間中学も、そこで展開された学びは、学習者の多くを失望させる授業の中身であった。さまざまな就学経験と目的と願いを持った入学者に対応する教員数をはじめ教育条件がけっして十分ではなかったことはあるが、それ以上に、教育行政も教員も「昼の中学校の授業を展開すればよい」という、それ以外の考えは恐らくなかったのではないかと思われる。

 「授業がわかってもわからなくても3年間通えばトコロテン式に卒業させられる。これでは何のためにわざわざ夜間中学にいくのか」(八木秀夫)。「夜間中学は満足に中学校も卒業できず、取り残されてしまった連中のよりどころのはず。なのに、そこでも取り残されるものがいる。それならオレたちだけで学校を創ろう」(1973.02.02 朝日新聞)。

 八木秀夫さんを中心に、卒業生、在校生が集い。自分たちの力で学習会を始めた。

 今回出版する(解放出版社)では第1部に「夜間中学生の主張」を据えた。夜間中学生15名の主張を収録した。これら夜間中学生の願いや想いを受け止められる夜間中学であってほしい、ありたいと考えた。そして教員も元気になり、躍動する夜間中学現場になる。そんな願いを込めて、第1部を編集した。

 
 
 
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