夜間中学その日その日 (630)
- 白井 善吾
- 2019年8月2日
- 読了時間: 5分
夜間中学開設運動を記録した映像 「浮浪児マサの復讐」
50年前の大阪の夜間中学開設運動を知ることができる映像として何があるんだろう?関西夜間中学開設運動50年の集会を企画するにあたって、50年前の開設運動に思いを馳せる映像を通して、「夜間中学」を再認識していただくところから集会をはじめたらどうだろうと考えがまとまった。
証言映画「夜間中学生」(1967.6)、「浮浪児マサの復讐」(1969.1)、「16年目の教室」(1969.4)、「わたしは夜間中学生」(1969.7)等の映像がある。「関西夜間中学運動50年に寄せる想いを語る集い」(2019.06.30)では「浮浪児マサの復讐」を見ていただいた。

何よりも見ている人を映像の中に引き入れ、見た人が開設運動を実践している一人として錯覚してしまうインパクトのある映像である。この運動があったから、関西の夜間中学のいまがあるんだと確認できる生々しいやり取りが展開されている。TBSのディレクターは新井和子さん。有線マイクを持ち、髙野さんにインタビュを行っている人だ。東京荒川九中夜間中学を取材し、教員の塚原雄太さんから、髙野さんが大阪で開設運動を実践している情報を入手されたんだと想像できる。
1968年12月17日、来阪した新井さんたちは、髙野さんと合流、直接神戸の湊川高校(定時制)を訪れている。証言映画「夜間中学生」の上映の前に、髙野さんが早口で語る場面が収録されている。「自分から文字やコトバを奪い、人間として生きる権利を奪って、ナイフで人を殺すことしか自己を主張できないところに追いやってきた社会に対し、今復讐をしなければならない、それがこの(夜間中学開設)運動なんだ」。ナレターはない、必要最小限の文字が画面に映し出され、リズミカルな音楽が流れ場面が切り変わっていく展開だ。
道頓堀川に架かる戎橋に画面が切り替わる。年末の心斎橋筋を行きかう人たちにビラを配り、夜間中学生の必要性を語りかける姿を追っている。〝生き証人〟を見つけ出す活動にレンズは焦点を合わせている。「夜間中学廃止反対‼大阪市内に夜間中学を設置せよ‼全国に120万以上の義務教育未修了者が放置されている‼」子どものふとんシーツに髙野さんが書いた手作りのポスターを背に行きかう人たちに語りかける髙野さんの声が収録されている。
つぎの場面は生き証人と名乗り出た31歳の女性に髙野さんが事情を聴いている場面に切り替わる。そして次は大阪市役所前で、ディレクターが大阪市教育委員会に向かう髙野さんにテレビカメラで同行取材を申し込み、髙野さんが「それでは担当者から『言質』が取れない」と断っているやり取りが長く収録されている。「それじゃあ、あなた一人で行ってください。私たちはあなたの運動の邪魔をするつもりはありません」。ディレクターの声が流れ、髙野さんは市役所の中に入っていった。
次の場面は話し合いを終え、地下の食堂に入ってきた髙野さんと教育委員会の担当者に場面が切り替わる。「髙野さん、話し合いは成功でしたか?」との問いに「お定まりのコース」ですよと髙野さんの返事。「今まで本腰を入れて取り組んでいなかったことは確かに言えるわけで・・」と担当者。
収録した12月18日は、毎日新聞の「越境かまいません」(1968.12.14)の記事が出た直後で、云わば、大阪市教委に〝ナイフ〟が突きつけられた時期でもあった。タイミングはよかった。市教委担当者の発言は変化の兆しを表しているといえる。
そして、12月21日に訪れた、大阪教職員組合(大教組)の書記局で五島庸一教文部長と髙野さんが〝対決〟する場面となる。「先生はこの前、夜間中学の設置のために努力しますといわれたんですが、そのあと大教組は何をされたんですか?」「大教組のトイレに入っているときに聞いたんですが、夜間中学は義務教育体制を乱すものだという話が聞こえてきた。これはどういうことですか?」
長いやり取りを同時録音どりのカメラはまわっている。「よし、わかった」「わかっていませんよ。今すぐ先生は何をするんですか」「ぼくは先生が何か行動を起こすまで、大阪を動かない」と迫っている。
約25年たった1994年12月、五島さんはこの場面を見て次のように話された。「奪われた教育権を夜間中学という形で取り戻すことの重要性は大筋理解していたわけであります。しかし、実際に夜間中学などできるのか、どう運動化するのか、確信が持てません。大切なこととは思いながら、具体的な構想も立てず、もちろん運動も起こさず時間が経っていったのです。そのことを知った彼は激怒しました。何万、何十万の人間が空気を必要とするように教育を必要なものとして求めているのに、口では、民主教育だ、人権だなどとわかったことを言いながら、実際には何もしない。これは一体どう言うことか となじり、叱りつけたのです。彼の怒りと反論はもとより、一切の言い逃れも許さぬ厳しいものでした。目の前にいるのは彼一人なのですが、私には無数の教育を奪われた人たちの怨念が彼の口を借りて糾弾しているように思われました。彼の追求と叱責は怠惰で弱気な私を大きく変えました。彼の言葉のひとつひとつが私の中の日和見や迷いをはらいのけ勇気を与えました。自分が間違っていたことを悟った以上は行動に移るより途はありません。その日から私にとっての夜間中学の運動はスタートしたわけです」(『生きる 闘う 学ぶ』101頁)。

夜間中学開設に向け、教育運動として教職員組合が、ギヤーチェンジを入れ替えた瞬間の場面が収録されている。
取材最終日、12月22日。この日も髙野さんは心斎橋筋に立っている。ディレクターの新井さんは、髙野さんに「釜ヶ崎に住んでいてもお金はかかるでしょう、(髙野さんは)それはどうしているんですか?」と尋ねている。「何で食っているか、という事は第一義的なことではない。ぼくにとって一義的なことは、人間として生きる権利はすべてに優先することだ」「でも生きていくためにはお金がいるでしょう。答えてくださらないと、あなたが今でも泥棒をしていると思ってよいか」「かまいませんよ、ぼくにとっては、そんな質問に答える暇に、ビラをまくことの方が重要だ」髙野さんはこのように言って心斎橋筋の中へ入っていくところで番組は終わっている。
この番組の電波が飛んだのは1969年1月21日。
口惜しさを、怒りに、夜間中学を開設させていく地べたを這うとりくみは、岸城の夜間中学の公認と天王寺夜間中学の開設につながった。名乗り出た8名の義務教育未修了者は校門を押し開いた。そして入学希望者の想いは、できた夜間中学の中味を創造するとりくみにつながっていった。「文科省の下請けの官制の夜間中学」ではなかった。