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夜間中学その日その日 (633)

  • 白井 善吾
  • 2019年8月22日
  • 読了時間: 3分

「天国のオモニが結びつけた出会い」

 激論を交わしているさなか、電話が鳴った。呼び出し音も私には聞こえなかった。促されて、受話器を取った。「・・・時間よろしいですか?」はじめて聞く女性の声。会議中だとはいえず、「ええ」生返事をした。次のような内容であった。

 月刊新聞『新聞うずみ火』7月号を読んでいたら、天王寺夜間中学同窓会の50周年の記事が掲載されていた。彼女が10歳、兄が高校生のころ、天王寺夜間中学にオモニが通っていた。オモニがテレビに出演したと兄がよく話していた。私も兄も、その番組を見たことがなかった。その兄がいま、病気で、何とかオモニが映っている姿を見て、元気になってほしいと、テレビ番組名を探していた。  『うずみ火』編集部にも電話をし、「夜間中学その日その日」の記事があることを新聞社編集部に教えて頂き、記事を順番に読んでいった。ジャーナリストネットワールドのコラム「夜間中学その日その日342」にでている、「オモニ」が私たちの母のことではないかと思い至り、天王寺夜間中学50年の記事に書いてある電話番号に電話をかけた。

 話を聞き終え、「高オモニですか?」と私はたずねた。「そうです」という返事。高知である夜間中学の学習会に持参するDVDのひとつが、NHK「こんにちは奥さん・私たちは夜間中学生」で、高オモニが出演した番組である。私もこの日の会議に持参していて、ちょうど手元にあった。

 「今どこにおられますか。こちらに来られませんか?」「うかがいます」との返事。こうなると、地球は速く回転する。約2時間後、お目にかかることができた。

 高さんが15歳の時、済州島から大阪に来て、天王寺夜間中学に入学したのは52歳。「オモニが夜間中学に行きたいと言ったとき、私のアボジも入学する事を進めてくれ、夜間中学へ入学しました。時間を見つけ、勉強している姿や学校にでかけている記憶はあります。卒業後も時間を見つけ、亡くなるまで、よく勉強していました」「孫にも元気なときの祖母の姿を見たらどんなにびっくりするか」と一気に話された。

 ちょうど、会議に出席していた、髙野雅夫さんも同席され、番組に出演したときの高オモニの様子を次のように話した。

 夜間中学生の語りが終わり、場面が切り替わろうとした時、済州島から15才で日本に来たオモニが鈴木健二アナのもつマイクを止めさせた。「日本きて一度も故郷の母親に電話がかけられていない。日本語で、1・2・3・4と番号でいって、国際電話の交換手に」つないでもらうことができないからだと涙声で話かけた。「夜間中学で勉強しているから、安心してください。必ず電話をします」最後は涙声で聞き取れなかった。

 この出来事は、2学期から、多数の在日朝鮮人の入学となって現れ、市内にもう一校の夜間中学の開設への動きにつながった。高さんの訴えは、小学校に行っていなくても、外国籍であっても、高齢であっても、「夜間中学で勉強できるんだ」そんなメッセージとして受け止められた。

 大阪放送局から全国にこの電波が飛んだのは、1969年7月17日。ちょうど50年前だ。50年後、このような出会いとなって、関係者がつながることになった。「きっと、天国のオモニが結びつけたんです」と話された。

 翌朝第一報が届いた。早速視聴されたとのこと。「間違いなくオモニの元気な姿でした。私の子どもも、多くの同胞が学んでいる夜間中学で働いてみたいと興奮して話していました」とのこと。

 夜間中学の存在意義の一つに「夜間中学は夜間中学生の家族にも大きな支えになっている」がある。夜間中学の回路を通して、世代がつながる、そして両世代が共に支え合う。どんな展開になっていくのだろう。

 
 
 
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