夜間中学その日その日 (641)
- 白井 善吾
- 2019年10月5日
- 読了時間: 4分
学校教育としての夜間中学の役割
公立学校の教員になって、19年目、夜間中学に勤めることになった。大阪府吹田市から守口市に移動し、4年間昼の学校に勤務したのち、夜間中学への移動であった。学校現場の雰囲気は行政区ごとに微妙に異なる。過去にどんな教育課題に教育運動として教員集団が取り組んでいるかで違うんだと考えている。他市から直接夜間中学への移動ではなく、守口市の昼の現場を体験し、それからの夜間中学に転勤したことはありがたかったと思っている。
進路保障の問題、学級集団づくり、部落問題学習の実践に教師集団の一人として参加することができた。そして他校の教員と知己を得ることができた。
進路を考える一環として、「学ぶ」ことを学年でとりくんだ。そして夜間中学や夜間中学で学ぶ人たちのことを考える一斉授業を組み立てた。その一つとして、NHK「こんにちは奥さん―わたしたちは夜間中学生―」の16ミリフィルムを上映し、出演している夜間中学生の語りの意味を考える授業であった。帰るまで消されんように「字を手で握って帰る」「この線を越えると海にはまりますヨ、と先生はいう。どこに海があるのか、陸があるのかわからしません」・・学ぶ喜びがはじけ飛ぶ夜間中学生の語りは、13歳の子どもたちに衝撃を与えた。
この子どもたちと夜間中学生の出会いをつくるため、まず私が守口夜間中学を訪れた。教室から聞こえてくる夜間中学生の声を聞き、安易に出会いを求める自分が恥ずかしくなった。夜間中学生と向かい合う前にもっとやっておくことがあると考えたからだ。守口夜間中学が発行している文集「まなび」に収録された夜間中学生の文章を読んで学ぶことの意味を考えた。このときの実践では子どもたちから、「夜間中学を訪れたい、話がしたい」という声は起こってこなかった。子どもたちの心に響く実践にはなっていなかった。

4年後、夜間中学に赴任したとき、それまでの常識が打ち破られていく連続の毎日が続いた。文集「まなび」で教材にした文の筆者が夜間中学生として在籍されていることだった。7~8年在籍されていることになる。へぇー、夜間中学の在籍は3年間でないんや。不就学、未就学、小学校は出ても、中学校に行けなかった人など様々な人が一つの教室で学んでいること、少しずつ実態が分かってきた。
中学校のカリキュラムでは組み立てが困難であること、独自の学習内容の組み立てが要求されること。中学校の教科書は使いたくても使えないこと、一斉授業でも自主編成教材の教材研究が要求される。そのようにして臨んでも、夜間中学生の受け入れはさまざま、ニコニコ顔、しかめ面、相半ば。次はしかめ面と真正面で臨んでも、ニコニコ顔がしかめ面に変面。とそれまで持ち合わせているものでぶつかっても答えが出ない毎日であった。何回か同じ失敗を繰り返すと、夜間中学生から、私の授業に対するプラス評価、マイナス評価が下され、いろいろな注文が出るようになってきた。マイナス評価はおさまりが良くない。素直に受け取ることができないのだ。言い訳をして責任の一端が夜間中学生にあるように返していることがあった。
そんな時、先輩の授業をアコーデオンカーテンで仕切った隣部屋から学習することに努めた。自分の展開と明らかな違い、途中の言葉がけが計算された言葉であることが分かった。その夜間中学生の半生が組み込まれた話題で言葉がけが行われていた。
受け持ちの教科はさまざまな教科となる。みんなで無免許運転で授業の組み立てに没頭する毎日であった。傍ら、1年に1冊出来上がった文集「まなび」につづられた自分史を読んで、夜間中学にたどり着く半生を頭に入れることに努めた。この夜間中学での体験は、もう一度、昼の学校に転勤したときに、私の中に大きな変化をもたらしていた。そのことは、昼の子どもたちが言った。「先生は他の先生とちょっと違う」とプラス評価をした反応が返ってきた。一面的な捉まえではなく、急ぐことはない、ゆっくり、子どもたちの立ち上がりを待つ、複眼的思考で臨むという姿勢を子どもたちが受け止めたからだと考えている。夜間中学生が、教員の頑固頭をどろどろに溶かし、鍛え直す役割を実行した成果の表れではないか。このことは学校教育としての夜間中学の役割の一つだと考える。こんな教員人生を送れたこと、本当に良かったと考えている。
昼の学校現場の変化はとても早く、夜間中学へ転勤すると戻ってきたときは「今浦島」だと言うことを聞いたことがある。そうかもしれない。しかし、上に述べた得がたい体験はそんな次元を超越した変革をもたらすものであると考えている。