夜間中学その日その日 (644)
- 夜間中学生歴史砦編集委員会
- 2019年10月24日
- 読了時間: 5分
大阪人権博物館第72回特別展映像記録 ①
夜間中学開設運動により、開校した天王寺夜間中学は2019年6月、開設50年を迎えた。2015年5月、髙野雅夫氏の来阪を機に、「夜間中学生歴史館」の活動が始まった。大阪人権博物館72回特別展「夜間中学生」展、『生きる 闘う 学ぶ 関西夜間中学運動50年』の出版、「関西夜間中学運動50年に寄せる想いを語る集い」などにとりくんできた。
これらとりくみを通して髙野雅夫氏が収集し、活用してきた夜間中学資料に加え、多くの夜間中学資料の整備充実作業の重要性を痛感した。また夜間中学生から「夜間中学卒業後も私たちができる夜間中学のことにとりくみたい」という声が起こってきた。この想いは、夜間中学に勤務した教員も同じだ。
改めて夜間中学生歴史館の開設と「夜間中学卒業者の会」の結成を呼びかけることにした。そして、夜間中学資料の充実、活用作業とそのとりくみのセンターづくりへの活動を行っていきたい。
こんな想いの実現をめざして.「夜間中学生歴史砦・夜間中学卒業者の会」の設立準備を進めている。
髙野雅夫氏の夜間中学関係資料がなければ上に書いた一連のとりくみはできていなかったと考える。夜間中学生が書いた手書きの一枚の資料を見た時、新聞記事に記載された、夜間中学生の呻吟を裏付ける原資料としてよみがえってきて、深呼吸し、姿勢を正すそんな繰り返しであった。各夜間中学がお持ちの資料にも、夜間中学生の息遣いが秘められた原資料あるはずだ。これらに再び灯があてられることなく消えさせてはいけないと考える。文科省が今になって出す通達を礼賛の視方ではなく、批判の視点で視ることの重要性をこれら資料は教えてくれている。
ちょうど2年前、大阪人権博物館で第72回特別展「夜間中学生」展が開催された時も、展示の記録を映像でと考えてはいたが、会期中に展示全体を通して単に映像ではなく、展示資料の前でインタビューも映像に収める方法で記録を残すことになった。いまこの記録方法を採用していてよかったと改めて思う。これらは『学ぶたびくやしく 学ぶたびうれしく 夜間中学生』(特別展映像記録 DVD43分)として完成し、希望者に実費でお分けしている。ご活用いただきたい。
今回「夜間中学生歴史砦・夜間中学卒業者の会」の設立準備の一環としてインタビューを収めた映像記録のシナリオを作成した。何回かい分け、掲載する。
大阪人権博物館第72回特別展映像記録 ①
特別展示室入口
大阪人権博物館建物・門標・特別展会場看板・開催趣旨文・夜間中学生の顔写真 全体とそれぞれアップで撮影
ナレーター:「72回特別展『夜間中学生』展に案内します。『生きる』の章にどうぞ」
「生きる」の章
章のタイトル文字を撮影
早期廃止勧告 朱字の部分をアップ。その箇所を読みあげる
当時あった夜間中学の一覧 92校から19校に激減、アップして全体を詳細に撮影
髙野さんの顔
ナレーター:「この勧告が出て髙野さんはどうしたのですか」
髙野:「夜間中学が廃止になるというのを聞いたとき〝死刑宣告だ〟と思った。つまり俺たちを育ててくれた、オヤジやオフクロが殺される。そういうショックで頭が真っ白になった。何で夜間中学がダメなのか、意味が全くわかりませんでした。自分たちにとって夜間中学がどうしても必要だということを一人でも多く、世の中の人に訴えたい。ということでカメラの好きな塚原先生(荒川九中教員)がいたんで、『先生!映画つくって!そのフィルを担いで、全国まわるから、一緒に映画みんなで作ろう』というのを提案して、映画の制作が始まった。だから〝空気を奪うな、空気をよこせ〟というのは、普通の人が幼稚園や保育所に、行く、行かんは別にして、小学校とか中学校とか、読んだり書いたりするのは、空気を吸うように、当たり前に生きていく、そう行くものを、すべて奪われている。だから人間にとって一番基本である空気を奪われているのと同じことなんです。で、オヤジ、オフクロが殺される。納得できないというのが一番の大きな理由です」

撮影風景デンスケ・編集機材 8人の顔写真など
ナレーター:「夜間中学生の24時間に密着、その実態を映し出し、勧告の不当性を明らかにし、夜間中学の増設をめざした」
証言映画の完成・スチール写真
髙野:〝原点〟だという、3名の夜間中学生の詩を朗読する。
江草恵子 「わたしの手」、
辺見美紗子 「私の家族」、
多胡正光 「夜間中学」
フィルム・背負子・ゼッケン、ヤッケ、文集「ぼくら夜間中学生」
ナレーター:「荒川9中が作成した文集『ぼくら夜間中学生』とフィルムを背に全国行脚に出発」
わらじ通信を撮影
ナレーター「怒りの全国行脚446日(1967.9.5~1969.6.8)青森・北海道・京都・大阪、毎日最低1通、駅のベンチを机に、官製葉書に書き、ノートに控えをとってから、投函した。母校・荒川九中の在校生に送り届けた。『どのぐらいの字数になりますか』と質問があった。1枚平均1000字、461枚あるから、45万字、ノートに控えをとっているから、倍の90万字。驚くべき精神力だ」
ナレーター:「いろいろな出会いがあったが、水平社宣言の出逢いは?」
髙野:「生まれて初めて、水平社宣言を読んだとき、なんというか、心臓がパクパクするような、頭をガーンと殴られたようなショックを受けて‥。『人間を勦るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば』の部分と『吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ』の二つが、意味はよくわからなかったけど、頭をガーンと殴られた。どんなことがあっても大学に行きたいという、大学への未練が残っていたんだけど、『あっ、これなんだ!俺たちが生きる道はこれなんだ!』。
二つの部分、『人間を勦るかの如き運動』は〝言動〟といってもいいんだけど、〝文字とコトバ〟といってもいいんだけど、それはやっぱり、『多くの兄弟を堕落さしたことを思えば』。この部分は、77歳のいまになっても、なんか、だんだん本当の意味が分かるようになってきた。まさに、『吾々が夜間中学生であることを誇りうる時が来た』」。(つづく)