夜間中学その日その日 (646)
- 夜間中学生歴史砦編集委員会
- 2019年10月30日
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大阪人権博物館第72回特別展映像記録 ②
「夜間中学生歴史砦・夜間中学卒業者の会」の設立準備の一環としてインタビューを収めた映像記録のシナリオを作成した。(第2回)

卒業記念の辞書
髙野:「昔も今も、そうなんだけど、夜間中学に通っているというのは、ある意味で、家族に隠したり、1964年3月18日、卒業式に、荒川九中の伝統である、辞書をもらう。その辞書に、あのように書いた」
『同情を憎み、矛盾に怒れ‼
生まれて初めて 学校の机に座った。
生まれて初めて 差別のない社会を知った
1964.3.18 荒川九中 二部 卒業式の日に タカノ』
髙野:「あれを書いた時も、なんか意味はまったく分からなくて書いたんだけど、それと何というか、ドッキングするというか、それと重なり合うというか、だから今でも、肌身離さず持っている。水平社宣言こそが、このキャプションにもつけたんだけど、〝俺たちの生涯を決めた羅針盤だ〟。だから今でも100年前にこの宣言を出したすごさ。特に『人間を勦るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた』。ぼくはもう世界に通じる本質の原点だと今でも想っている」
寄書き 「支援の寄書き、岡山県立倉敷工業高校・倉敷商業高校部落解放研の寄書き」
京都の夜間中学廃止の報道
ナレーター:「京都で夜間中学を廃止し、通信教育にするという連絡がはいった。すぐさま、京都に向かった」
ナレーター:「荒川九中 在校生 金同恒の強制送還の知らせが入った。髙野さんはどうしたんですか?」
髙野:「在日朝鮮人だとばかり思っていた。通名で大山隆夫と名乗っていた。だからその手紙をもらった時も『ええっ』と想って、お母さんが密入国して日本人の男性と結婚して彼が生まれた。本当はお父さんが引き取って自分の籍に入れれば在留できるからといって、お父さんを説得してほしいと、説得に先生が行ったんだけど、お父さんが引き取らなかった。だから、お母さんと彼が大村収容所に収容されているという手紙が届いた。大村収容所に電話して電話口に出してくれ、出してくれ、出してくれと言ったんだけど、規則でダメだといったんで、次、3・11に帰国するという電報が来た。そのまま、電話口に出してもらえず、彼がその日に韓国に強制送還された。その時、ベトナム戦争が一番激しいときで、囚人とか問題ある若者をベトナムに送ったという話を聞いたので、ベトナム戦争で殺されたかもわからない。いまでも悔しくて、悔しくて、一番記憶に残っていることです」(つづく)