夜間中学その日その日 (698)
- 夜間中学資料情報室 白井善吾
- 2020年7月28日
- 読了時間: 4分
形式中学校卒業者の夜間中学入学について(再論)その1
夜間中学卒業者の会第1回の集い(2020.01.22)で上映された幻の映画がある。神戸学院大学の水本浩典先生が、16ミリフィルムを修復、CDに落としこんでいただいた。髙野雅夫夜間中学資料の中に、このフィルムはあり、保存状態もよくなく、私たちもどうすべきか思いあぐんでいた。もちろん何が撮影されているのか、わからなかったフィルムの一つだ。フィルムは全国夜間中学校研究大会(17回大会・東京荒川区役所会議室)の全体会を撮影し、夜間中学生が意見発表をしている場面が収録されていることが分かった。音声を別撮りされ、無声映画である。録音機を持った髙野さんが写っているから、音声テープも見つかるかもしれない。
場面は荒川九中夜間中学の小林久美子さんの意見発表のあと古部美江子さんが発表を行った。形式卒業者も夜間中学入学を正式に認めるように訴え、出席していた文部省の中島中学校課課長補佐が応えている場面も写っている。明確な答えがないまま、司会者は時間が来たと、全体会を打ち切り、散会となった。悔しく呆然と立ち尽くす二人に、眼光鋭く、激しい口調で語っている髙野さんが写っている。その場を去りがたく、遠巻きに眺めている塚原雄太さんが写っている。

夜間中学生が挑んだ、文部省の担当者に公開直談判は18回全国夜間中学校研究大会(1971年11月26~27日)に持ち越された。長いやり取りの末、中島課長補佐は「昨年の段階では形式卒業者は(夜間中学に)受け入れられないと公式的な発言をしていましたが、(今年は)学習したい人には学習の機会を与えるべきではないか」と答えた。合わせて、「学習の機会をつくるわけですから(夜間中学を)つくらなければならない」と大阪府教委担当者からも回答を得ている。さらに課長補佐は「各都道府県にも(夜間中学と形式卒業者の)話をし、私どもも積極的にこれを国の予算などで持つべきところは持つよう努力いたします」と発言した。
前川喜平さんが大阪人権博物館の特別展「夜間中学生展」にお越しになった2017年12月8日のことだ。展示物の案内と説明をする機会があった。18回大会の展示の場面では、中島課長補佐と夜間中学生のやり取りを説明した。「中島章夫さん、存じ上げています、立派な方です」とあったが、形式卒業者入学のやり取りについてはご存じなかった。
前川さんの対談集『教育のなかのマイノリティを語る』(明石書店2018年9月)の中で特別展にも触れ「ある課長補佐が、『いいですよ』といったことがあるという話が残っています」と語っている。(対談日・2018.2.11)
18回大会の記録誌は発行されていない。どんな内容の議論があったかを知ることができるのは『자립(チャリップ)』に収録された髙野さんたちがテープ起こしをした記録のみである。なぜ発行されなかったのか?知りたいところだ。
この議論を受け形式卒業者の入学は、全国の夜間中学でできるようになり、1974年ごろ、全国の夜間中学では150名以上の「形式的卒業の扱いを受けた」人たちが夜間中学で学んでいた。
18回大会の記録誌は発行されず、明確な裏付け文書を 文部省、大阪府教育委員会、大阪市教育委員会も発行せず、当事者の移動とともに、形式卒業者の入学の扱いは従前に戻されていった。夜間中学の側も、経過は知りつつも、教育委員会の入学を認めない姿勢を覆せず、各夜間中学によりまちまちの入学状態が80年代後半の状況ではなかったか。それ以降は入学者はゼロの状態に推移してきた。
形式卒業者の夜間中学入学を求める動きは以前と変わらず、受付窓口で断られていくことになった。全夜中研は文部省、都道府県、市町村教育委員会に入学を認める大会要望書をあげ、説明を求めてきた。
「中学校を卒業いただいた方につきましては、再び中学校に入学という形はとることができませんそういう制度になってございます」(2005.12.9)が文科省のお定まりの回答であった。
前川さんも、1979年入省して最初の任務が「陳情窓口」で、「担当課が出てきて、だいたい全部ゼロ回答です。何を言われてもできませんできませんといっているだけ、そういう場面に何度か遭遇しました」と対談集で語っている。私も何度か参加したが、窓口で入学を断られる人たちの声を伝えても、回答書に目を落とし読み上げる担当者を見てきた。
夜間中学運動を共にしてきた人たちからも、白井さんは18回大会のことをそのよう説明するがそれは「死語」ですよ、と逆に諭される状況も生まれてきた。
(つづく)