夜間中学その日その日 (700)
- 白井 善吾
- 2020年8月11日
- 読了時間: 7分
「夜間中学」に関する国会議論(その①)
戦後の夜間中学の発足をさせた考えは義務教育未修了者の恵まれない人々を救うという慈恵的な考えであった。主に校長や教員のとりくみによって1947年10月1日、大阪市立生野第2中学で始められた。しかし、戦後初めての夜間中学(夕間学級)も1950.7.20わずか3年間で廃止となった。ある日、教育委員会から呼び出しがあり、出向くと文部省の係官も同席しており、夕間学級の出席簿と学籍簿を取り上げられ、廃止のやむなきに至ったと夕間学級担当者は語っている。夜間中学に対する、国や文部省の考えは、行政管理庁が出した夜間中学早期廃止勧告(1966.11.29)「夜間中学は学校教育法では認められていない」に明確に表れている。
この考えに対し「憲法で規定された教育を受ける権利を保障させるのだという、権利思想」を掲げ、逆に夜間中学開設運動を展開したのが髙野雅夫さんの全国行脚だということができる。

最初に教育権、学習権の保障を主張したのが学者ではなく、夜間中学卒業生であったことは忘れてはならない。夜間中学について国会の議論では議事録に175件の記述がある(2020.06.30現在)。これらは夜間中学の基本的な考え方や理念、引揚帰国者の教育、行政管理庁の廃止勧告、不登校の人たちの教育、識字、外国人への日本語教育、そして夜間中学の立法と7項目に分類できる。
夜間中学関係者で議論沸騰していても国会の議論に現れてくるのは時間的には後のことが多い。行政管理庁が出した夜間中学廃止勧告が取り上げられるのは1973年の国会で7年も後のこと。基本的理念の議論では夜間中学について「闇の学校」(’56年)、「もぐりの学校」(‘59)、「法律違反」(’61)、「必要悪」「現実を認めざるを得ないが」(’63)、「社会教育で」「私生児的扱い」(‘71)という語彙を用い担当者は夜間中学を説明している。語彙の用い方で夜間中学に対する見方が分かるのだが。
また教育権、学習権で語られた夜間中学の議論は意外と少ない。「教育を受ける権利」(’74年佐々木静子議員(社会))、「学習権というものを大切にした教育政策」(2011年鈴木寛副大臣(民主))のわずか2名でしか見ることができなかった。
まず質問し、議論を展開した政党、所属クラブ別で見ておく。
社会党(55)、公明党(30)、共産党(21)、自民(9)、民主党(7)、民進(5)、立憲(5)、社民(4)、維新、緑風(各3)、二院、自由、国民民主、無所属、民社(各2)、
内容別では 国会参考人(12)、追悼演説(2)、本会議での委員会報告(6)がある。
国会議員の質問を受け、夜間中学の場合、答弁に立つのは初等中等教育局長であることが多い。しかし大臣が答弁に立つこともある。議事録には天野貞祐文部大臣から萩生田大臣まで25人の大臣答弁が記録されている。他に夜間中学の施策に関して厚生、外務、法務、総務省、総理まで5人の答弁がある。これらを概観してみよう。すると国の夜間中学に対する考えの変遷が浮かび上がってくる。
清瀬一郎(文部大臣):「学校の方の配慮で(夜間中学は)自然発生的に逐次発生したものであります」(1956年)。荒木萬壽夫大臣:「夜間中学ということは、学校教育法上許されないやみの存在だ」「やむを得ざる必要悪として存在している」「何とかしてこれを解消する努力をしなければならんと思って、私どもの責任として、せっかく努力中」「文部省の立場においては、夜間中学を制度として認めるという結論にはちょっと到達しかねる」(1962年)。国の「夜間中学観」は必要悪だが存在しているという考え方である。
ところが踏み込んで質問すると同じ荒木も「やみの中学でございますから、これを絶滅するということに全力を注ぐべきだ」(1963年)。灘尾弘吉大臣:「文部省としましては、たてまえ上は夜間中学というものを認めてはおらない」(1964年)。「夜間中学を合理的に整理していくといいますか、解消していくということで、文部省としても努力」(1968年)が本音だ。行政管理庁が夜間中学の早期廃止勧告を発したのは1966年だ。
この姿勢に変化が出てきたのは1971年から72年にかけての坂田道太大臣の答弁にみることができる。「私たちとしては、やむを得ず(夜間中学)は認めざるを得ない」(1971年)。「法律を改正する必要があるならばそれを改正する等を含めまして、十分前向きに検討いたしたい」(1971年)。「特例の措置というものを考える必要があるというふうに私は思います」(1971年)と変わってくる。さらに、高見三郎大臣:「夜間中学はできるだけ多くつくって、できるだけ多く収容してあげることを考えるべきである」(1972年)。
奥野誠亮大臣:「(学齢者超過の人の)需要にこたえていくのはやはり私は教育を推進していく道ではなかろうか、夜間中学が存置され、整備されるように配慮していきたい」(1973年)。そして出してきたのが、「私は義務教育という見地でとらえるんじゃなくて、社会教育的な見地で考えていくとかいう性格のものではなかろうか」(1974年)と「社会教育路線」を打ちだしてきた。学校教育ではなく社会教育でとの考え方で、夜間中学の主張を封じる、夜間中学の開校を否定する論拠に地方行政が用いた考え方だ。
夜間中学に韓国そして中国などから引揚げ帰国者が多く学ぶ状況が到来すると外務、厚生、法務大臣の答弁も加わった。海部俊樹大臣:「また地域では夜間中学校のみならず、いろいろ県、市等の主催する日本語の研修会もある。努力をさせていただきたいと思います」「この中国引揚者の皆さんのための日本語教育というのは、例えば大人になられてから帰ってきた方のためには夜間中学校で特設授業、特設教室なんかも設けてあります」(1986年)。
1978年から2003年の25年間で大臣答弁がわずか2つしかないのはなぜだろう。2003年、全夜中研が、日弁連に人権救済申立書を提出。日弁連は2006年「学齢期に修学することのできなかった人々の教育を受ける権利の保障に関する意見書」を国に提出した。この高まりを前に、2003年、遠山敦子大臣は「それぞれの設置者たる市町村がしっかり判断してやってもらいたいと思います」と国は責務から逃避する答弁をしている。そして中山成彬大臣は「夜間中学校というのは日本語教育を専門とする教育施設とはちょっと異なります」(2005年)と夜間中学は日本語学校ではないと釘を刺している。
日弁連の意見書の影響は答弁の変更として現れてきた。塩谷立大臣:「もっと広く全国的にということは今後検討をしていく必要がある。それは、教育の機会均等という観点でも今後検討してまいりたいと思います」(2009年)。2009年6月、民主党は「教育環境整備法案」を提出し、参議院を通過させた。しかし、衆議院が解散となり、法案は成立しなかったが、民主党政権になると夜間中学の法的根拠として、高木義明大臣:「中学校の夜間学級については、学校教育法施行令第25条というところで、きっちり法的な根拠がある」(2011年)とそれまでの政府答弁を変更した。それまでの政府見解は、鈴木勲(初等中等教育局長)が述べた「25条の5号が夜間学級の根拠規定というふうには私どもは考えていないわけでございます」(1983年)である。
平野博文文科大臣:「着実に充実をしていかなきゃならない、こういうふうに思っておりますので、文科省としても支援をしてまいりたい」「私は前向きに検討をしていかなきゃならない」(2012年)。自民公明連立政権となり、自民党が永年とってきた夜間中学冷遇視から180°転換する政策を打ち出してきた。下村博文(文科大臣):「夜間学校への着実な支援」(2013年)、「しっかりバックアップ」「少なくとも各都道府県に一つは夜間中学が設置されるよう、その設置を促進していきたい」(2014年)。そして2016年12月、教育機会確保法の成立の流れだ。
2015年3月の第189回国会以降、文科大臣が就任した時、所信表明の中で夜間中学に触れ発言するようになったことも特徴だ。全部で82件の大臣答弁があるが、1945年から2013年の68年間で37件の答弁に対し、2013年から現在まで6年間に45件の大臣答弁がある。
「教育機会確保法」の公布も含め、2013年以降の国や文科省の大きな変化の背景に前川喜平さんは超党派の夜間中学等義務教育拡充議員連盟発足に原因があると話されている(2020年7月12日「福島みずほと市民の政治スクール in 神奈川」)が、私は疑問を呈しておく。それについては別の機会に述べる。
以上の概観である。社会の変化が、真っ先に夜間中学に訪れる。しかし政策の変更が最後になるのが夜間中学といえる。この変化を促す原動力は夜間中学生の絶えることのない、怒りをバネにした闘いであるといえるのではないだろうか。大臣答弁を引出す、国会議論は、夜間中学生が議員事務所を訪問、話し込みをしたとりくみが背景にある。まとめながらこのことが確信出来た。
国会での議論の要旨を何回かに分け連載する。
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