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夜間中学その日その日 (1000)  髙野雅夫

  • journalistworld0
  • 2024年11月8日
  • 読了時間: 6分

「夜間中学開設25年、さらに増設を ‼ 今日の集会を次の出発点に」 2024.11.09

 夜間中学のその日その日の出来事を書き連ね、ジャーナリストネットワールドのコラムに投稿したのは、2008年5月6日の第1回の記事が始まりだ。今日で1000回を迎え、16年が経過する。多数の執筆者の投稿により、今日を迎えることができた。

 「夜間中学のその日その日」の前身に91回で終えた「夜間中学は今」があるが、 橋下知事の新自由主義に基づく夜間中学の就学援助・補食給食補助廃止の闘いに立ち上がった近畿夜間中学校生徒会連合会の活動の記録と報告が連載執筆の動機であった。

 1000回を記念して、集会「夜間中学開設25年、さらに増設を、髙野雅夫さん人権賞と出版を祝って」(1994/12/4)での髙野さんのスピーチを紹介する。それから30年が経過する今、決してぶれることのない髙野さんの主張は、1966年11月29日、行政管理庁が文部省、労働省、警察庁に発した夜間中学早期廃止勧告に怒りの原点があることがわかる。

 都合の良い理屈をつけ、迎合していく姿勢はないだろうか。私たちの反省も込め、髙野さんの主張に向き合いたい。(編集部)



 

  「夜間中学開設25年、さらに増設を ‼ 今日の集会を次の出発点に」

 全員の拍手にむかえられた、髙野さんは次のように語った。

「皆さんこんにちは、東京荒川九中夜間中学卒業生髙野雅夫です。25年前の懐かしい、いろんな人たちと今日お会いして、胸がいっぱいです。何をしゃべっていいかわかりません。

今から25年前の1969年6月5日、このジャンバーを着て、天王寺中学の玄関に立っていました。天王寺中学第一回入学式の夕方です。

 1966年11月29日、行政管理庁は文部省、労働省、警察庁に夜間中学早期廃止勧告を出して、当時25校あった夜間中学はどんどんつぶされ、19校になっていきました。戦後の闇市の中で5歳頃から、たばこを吹かし、酒をあび、ヒロポンを打ってナイフを振り回し、野良犬のように生きてきた俺にとって、夜間中学はまさに育ての親でした。

 21歳になって国籍も、戸籍もなく、生まれて初めて教室の机に座ったときの感激は、眠れなくなるほどの体が震えて、感動したことを今でもはっきりと覚えています。だから夜間中学が廃止されるということは、野良犬のように生きてきた、俺を育ててくれた親父が、おふくろが殺されると同じ思いでいっぱいでした。親父とおふくろに対する 死刑の判決以外の何ものでもありませんでした。たった一枚の紙切れで、親父やおふくろが殺される、殺せるものなら殺して見ろ、命をかけても守りたいと思いました。そう思って、フィルムを担いで、北海道から全国を回ってやろうと思っているうちに、夜間中学がどんどん廃止されていきました。

 当時、東京に匹敵する大都市である大阪市内に夜間中学が一校もない。どうしても夜間中学をつくりたいという思いで1968年10月、大阪・釜ヶ崎のドヤの中に泊まり込み、とにかく夜間中学をつくりたいという思いで、大阪市庁、府教委、市教委、大教組をはじめ、いろんな所を、ビラを持って必死に回りました。正直言って、最初はどこに行っても相手にされませんでした。大阪は同和教育や解放教育は、ちゃんととり組まれているし、民族教育はちゃんとやっているから、そんな人は一人もいません。髙野さんは東京から来たのに、大阪の人の中から、府民も市民も、そんな声は一人もありません。そんなことで冷たくあつかわれました。

 あるところでは、夜間中学をつくることは差別の再生産だと、いきなり怒鳴られました。最初は何で怒鳴られたのか全くわかりませんでした。テクテク、駅のほうへ歩いていきながら、だんだん頭に来ました。何が差別の再生産だ。この大阪に絶対仲間はいるはずだ。当時、200万いる大阪の人一人一人に、200万枚ビラをまき続けたら、必ず仲間は現れるはずだ、そう思ってビラをまき続けました。

 さっき、玉本先生が話されたように、その中の小林晃という当時16歳の少年が小児麻痺で、小学校中学校をほとんど行けず、彼が真っ先に名乗り出てくれました。彼の記事が新聞にでて、その後7人の仲間が名乗り出てくれました。

 よく、大阪の夜間中学は髙野雅夫がつくったといわれますが、それは本当は嘘なんです。たしかにゼッケンを付け、ビラをまき続けました、しかし俺が200万枚のビラをまき続けても、まだ夜間中学ができるか、できないか、わからないときに、勇気を持って名乗り出てくれた、8人の仲間が、大阪の夜間中学をつくったのです。

 その中心になった小林晃、神部博之、八木秀夫は若くしてもうこの世にはいません。この会場に、彼らの姿がないのは、彼の顔に会えないのは悔しくてなりません。彼らをはじめ、多くの仲間たちを俺たちは見殺しにして、彼らの屍の上に俺たちは立っているのです。彼らはどんな思いで死んでいったか、多くの仲間たちの命を忘れたら、夜間中学は命を失います。

 夕方になって、本当に仲間たちは来るのだろうか、どんな仲間たちが来るのだろうか不安で胸がいっぱいでした。緊張した顔で、光り輝く瞳で続々登校してくる仲間たちの姿を見たとき、ざまぁあ見やがれ、そんな人が一人もいないといった大阪に、こんな大勢の仲間たちがいるではないか。そう思ったとき、嬉しくて、体が震えて止まりませんでした。

 しかし、それと同時に、この夜間中学が、この天王寺の夜間中学がもし10年早くできていたら、彼らはどんなに豊かな青春をもっと豊かな人生を送ることができただろうと、そう思うと悔しくてなりませんでした。その時の悔しさを思うと感動と同時に、今でも体が震えて眠れなくなることがあります。

 それから夜間中学が35校になり、約3000人の仲間が学んでいます。しかし今日午前中、確認会が行われたように、菅南中学の教師による、朝鮮人に対する差別発言というより、朝鮮民族に対する殺人行為です。方や、8月7日、東京で行われた関東夜間中学連合会の第2回交流会でも、夜間中学で20何人のオモニのクラスを担当する担任から、被差別部落に対する明らかな、はっきりとした差別発言がでています。時を同じくして、東と西に、信じられないような人事が夜間中学の中で行われていることは事実であります。

 それが志し半ばで倒れた多くの仲間たち、いまだに夜間中学に学べない170万人以上といわれる仲間たち、さらにオモニ、ハルモニたちの、何10万人という叫びを無視した、夜間中学が無視続けてきた歴史を象徴していると思います。

 そういう意味で、今こそわれわれは、25年前の原点に立ってもう一度、新たな歴史を創り出していく、そのために、武器になる文字とコトバを、夜間中学生みんなに学んでほしいし、教師と共にそれを確認していきたいというふうに思っています。

 今日の日をその出発の日にできれば、こんなに盛大な会を開いていただいたみなさんに、本当に心から感謝申し上げます。ありがとうございました」(拍手)

 
 
 

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