夜間中学その日その日 (1090) 夜間中学資料情報室
髙野雅夫夜間中学資料の魅力 ⑪ 2026.05.16
髙野さんが東大阪に移り住んで2年近くたった、2016年10月ごろだったか、大阪で夜間中学開設運動をしたころ歩いたコースを歩きたいとの提案が髙野さんからあった。体力がなくなり、歩けるかどうかわからないが、ともおっしゃった。私も参加しますよと返事したものの、髙野さんはその時それ以上は何も言わなかった。
釜ヶ崎のドヤ(宿舎)の天井に貼った行動記録の掲示物に囲まれた写真や行動がびっしり書かれた掲示物が「神戸学院大学 髙野雅夫夜間中学資料室」に保存されている。これを分析すれば、わらじ通信には記載されていない、大阪214日の闘いの行動全容がつかめると考えている。
2024年天王寺・文の里夜間中学の統廃合を強行した、大阪市教育委員会担当者に天王寺夜間中学開設を決断した1968年当時の開設運動と当時の教育委員会を突き動かした熱と光を明らかにするためにも、天王寺夜間中学開校への214日の闘いを再確認する作業が急がれる。

その日、旧NHK大阪放送局前の交差点に約束に時間にもう髙野さんは立っていた。約束の時間に遅れた髙野さんを私は知らない。髙野さんの出で立ちを見て驚いた。うかつにも、その時まで私は気づかなかった。着古した黄色い冬用のヤッケとリックではない。手に持っている団扇に髙野さんが書いた文字だ。
「1966.11.29 行政管理庁 夜間中学早期廃止勧告‼ 50周年に‼ 夜間中学たちの叫び 자립」と書いてあった。この日は50周年にあたる日だった。この団扇を見るまで、私は気がつかなかった。
髙野さんはそういう人だった。「今日が、行政管理庁 夜間中学早期廃止勧告‼ 50周年に‼ 気づいてくれよ、そんな想いを持っていた」はずだ。しかしそれは口にしない。想いがあれば、行動に現れてくる。ひたすら立ち上がりと、次の提案を待ち、気がつかなければ、このように団扇に書いて「気づけよ」とサインを送るそういう人だ。
NHKを出発した髙野さんは大阪府庁に向った各政党議員団のあるフロアーを歩いて玄関に出たときその一瞬をカメラに収めることができた。東の方向を凝視する眼は鋭かった。何を訴える眼だったのだろう。
京阪天満橋から難波橋を渡って中之島中央公会堂、中之島図書館、そして大阪市役所に向った。旧庁舎は建て替えになって、新庁舎には昔の面影はない。この間、髙野さんの方から話しかけることはなかった。当時の出来事がつぎつぎ去来していたであろう。私の問いに答えて、桃谷にあった部落解放同盟を訪れた時の話が髙野さんの口から出てきた。TBSカメラルポルタージュ「浮浪児マサの復讐」にあった市役所玄関で髙野さんがディレクター新井和子さんの詰問にあう場面の話を伺った後、地下の食堂で休憩した。髙野さんは関西テレビも行こうと言い出した。
1968年11月23日の桂米朝司会の番組「ハイ土曜日です」に出演したテレビ局だ。15回全夜中研大会の翌日、塚原(荒川九中)、末吉(西野分校)先生、西野分校の夜間中学生二人、文部省奥田課長が出演した。この放送を見た方から放送局に電話が入り、番組終了後、川村ディレクターとその住所に駆け付けた。
生き証人が名乗り出た番組のテレビ局だ。関西テレビも天満に移転していて、大きな駐車場に変わっていた。このテレビ放送が生き証人・小林晃さんの名乗り出につながった。
10月11日、大阪に入りわずか40日余りで「大阪にはそんな人はいませんよ‼ 」と豪語した大阪市教育委員会の担当者の欺瞞を裏付けた。その後の動きも早かった。岸城夜間中学から神戸市立丸山中学西野分校の入学へ。
「越境かまいませんよ 神戸の夜間中学に大阪の四人 尊い熱意拒めぬ “映画の訴え”実結ぶ」(毎日新聞 1968.12.14)。関西テレビ局に向かう道中は、髙野さんは聞き役に回っていた。この日の行動の意味を見抜けなかった、私の非礼を詫びる意味があったのかもしれない。
団扇にかかれた内容で “おかしい” と思うところが1カ所ある。私はそれを言葉にはしなかった。団扇の裏にもう一文、表と同じ文章が書かれていた。ただ一カ所だけ異なっていた。髙野さんが亡くなった後、箱の中にこの時の団扇が入っていた。それで分かった。「1966.11.29 行政管理庁 夜間中学早期廃止勧告‼ 50周年に‼ 夜間中学生たちの叫び 자립」と書かれていた。
府庁玄関の写真は「夜間中学たちの叫び」のほうを「表」にされていたのだ。






















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