夜間中学その日その日 (1111) 夜間中学資料情報室
『コヤシの思想―髙野雅夫と夜間中学の闘い』完成 2026.09.05
筆者が髙野雅夫さんと初めて言葉を交わしたのは1972年9月15日午後6時、なにわ会館。天王寺・菅南(現天満)・八尾・長栄の夜間中学生卒業生10名。教員等10名、それに髙野さん。どんな経過でその場に私が参加していたか定かでない。当時私は吹田市に夜間中学を開設するとりくみに参加をしていた。大阪教職員組合の執行委員から髙野さんがこの日、来阪することの情報を得て参加したのかもしれない。髙野さんの記録ノートにこの日の記載がある。

☆吹田市に夜間中学をつくる運動、
(白井)教組の運動方針として夜間中学の開設を明記している
(岩井)夜間中学をつくることは簡単や、だが中味をつくることはものすごくたいへんや」
(白井)菅南、天王寺を訪問、考えの甘さを痛感している。
鮮明に覚えているのは、対応の鈍さにしびれを切らした髙野さんが席を立ち、帰っていこうとする髙野さんを引き留めている場面だ。それから54年が経過し、髙野さんがなくなった今、髙野さんの考えを第三者が聞き取り、対話を交わした記録は大変重要だと考えている。
2002年4月から1年にわたって、産経新聞夕刊の50回の連載が始まった。当時私は守口市内の昼の中学校からもう一度、守口夜間中学に勤め始めて頃で、毎週木曜日の夕刊に出る「『こやしの思想』を語る―髙野雅夫との対話」の800字の記事は、夜間中学生や先生が話している「髙野雅夫さん」を知ることができる最適な教材に変化した。
連載後、出版されるものと期待していたが、一向に実現しないので、髙野さんに聞くと、あれは対話になっていない。対話者も、考えを述べあうものだという返事。厳しい返事だった。その後も、何度か話題に乗せ聞いたが同じ答えが返ってきた。
昨年の1月、夜間中学卒業者の会の会議で、髙野さんのいう「タネの思想、コヤシの思想」、「敗者復活戦の法則」、「内―外―内」と「外―内―外」をわかりやすく説明、語られているのはこの連載記事だけではないかと髙野さんの答えを待った。しかし、いつもの「対話になっていない」ではなく、何処の出版社になるかとの懸念が理由であった。その懸念が払拭できれば、「ゴー」と受け取りますよ。難解な 「内―外―内」と「外―内―外」の考えについてわかりやすく説明されている唯一の出版物になるのではと話し合った。
髙野さんとのこのやり取りを対話者の今西富幸さんにお伝えした。読者の多くは髙野さんがお亡くなりになって出版されたと誤解されるかもしれないが、上に書いた経緯だとお伝えしておく。
髙野さんが私たちに悔しさをにじませて話したことがある。『敗北を抱きしめて』(岩波)の書名だ。「先に使われてしまった」といった。連載記事のスタートは、「米国の歴史学者ジョン・ダワーのピュリツァー賞『敗北を抱きしめて』は敗戦から立ち上がろうとした日本人の原風景を描いた出色の文化歴史論だった…」から始まっている。
敗者と強者、マイナスとプラス、敗者復活戦、敗北の認識、「外に基準を置く」…対話ではこれらの語彙を用いて髙野さんは語っている。『敗北を抱きしめて』がピタッと来る表現だと何度も語った。
私は、『コヤシの思想―髙野雅夫と夜間中学の闘い』は髙野さんの2冊目の“遺言書”(*)だと受け止めている。夜間中学や夜間中学生、教員こそ受け止めてほしい。そして明日の夜間中学に生かしてほしい考え方が語られている。
発行日の木曜日、夕刊が店に並ぶ時間、今日は何が語られているか?と想像しながら、学校近くのコンビニへ走ったあの頃を想いだす。記事を読み、内容について夜間中学生が語り合うそんな展開であったが、私たちが受けた影響は計り知れない。髙野さんが夜間中学生に呼びかけた韓国の文解(識字)で学んでいる人たちと交流しませんかに三校から30名を超える夜間中学生が応じ、ソウル近郊の安養市にある安養市民大学(文解教室)を訪れた。そして交流の中で「あなたたちは奪い返した文字とコトバでどんな社会活動をされていますか?」と問いを受けた。
夜間中学生だけでなく教員も大きな影響を受けた出会いにつながっていった。
まもなく、発売になる。
(*)最初の遺言書は『さわやかに野垂れ死にたい』(1993.2.1)






















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