夜間中学その日その日 (1105) 夜間中学資料情報室
2026.6.7天王寺夜間中学同窓会 集会 2026.08.01
2026年天王寺夜間中学同窓会総会は韓国から萬稀さん高尚哲さんをお迎えし、集会「髙野雅夫さんと天王寺夜間中学」が開催された。150名を超える参加者があった。
集会は「ウリマダン」のチャンゴの演奏で始まった。韓国から駆けつけた33期の同窓生金渡先さんの指導で練習を重ねオープニング演奏を行った。天国の髙野さんに呼びかけ、会場に招き入れる長い演奏の後「髙野さーん」と出演者の声が会場に響き渡った。

体育館の4面ギャラリーには在学時作成した共同作品で埋め尽くされている。配布された集会冊子には「46期生・兪敬愛(ユキョンエ)さんが描いた髙野さんの肖像画の油絵と「天王寺夜間中学の魂(れきし)は不滅だ!!」髙野さんの直筆が印刷されている。
「髙野さんの想いを引き継いで」「悲しくてたまりません」「天王寺夜間中学の証が保管できる資料館を」「夜間中学を守りたい」「夜間中学は、人間としての誇りと権利を奪い返す闘いの場だ」「同窓会に託された遺言書」「おかげで私たちも夜間中学で学ぶことができました」「学びこそが、私の命を繋いだ」「髙野雅夫さんと私」「髙野雅夫さんと萬稀さん」と同窓生の想いのこもった文章が収録されている。
萬稀さんの講演は髙野さんのとの出会いから始まった日韓識字文解交流を通して髙野雅夫さんの魂とDNAを引き継ぎ、カンボジアで自ら識字学習者であり、文解指導者としてとりくみを報告された。
髙野さんのインタビュー映像が投影された。2017年リバティーおおさか(大阪人権博物館)72回特別展「夜間中学生展」で展示された髙野雅夫夜間中学資料を背景にインタビューに応じられた髙野さんの発言は改めてぶれない発言と姿勢を確認することができた。
金喜子さんは「髙野さんに出会い、髙野さんのようになりたいと思った。生徒会に参加し、さまざまな場所に行った。字も書けなかった自分が、四国まで夜中創設の手伝いにも行った。その喜びを参加者に伝えたかった」。
近畿夜間中学校生徒会連合会の上田会長は水平社宣言には、「『人の世に熱あれ 人間に光あれ 』と書かれている。人は皆平等だ。『先生、私たちは学びに来ています。先生たちは何を学びに来ていますか?』」と提起した。
韓一茂さんは「橋下知事は、2008年夜間中学の就学援助、補食給食の大阪府補助を打ち切った。当時の連合生徒会は懸命に交渉し、活動した。そのメンバーがいま、役員としてここにいる。卒業したら終わりじゃない。夜間中学のためにできることをやっていきましょう」と呼びかけた。
天王寺夜間中学の開設を終え東京に戻る髙野さんを引き留め、ポストを用意するからと引き続き夜間中学の増設に力を貸してほしいと要請したのは大阪市教育委員会ではなかったのか?その役割は夜間中学生であり、必要性に気付かされた教育行政だと云い、髙野さんは1969.6.8大阪を去った。
天王寺夜間中学は1969年6月5日開校入学式を行った。教育汚職が発覚し、4月開校が2か月遅れの開校入学式であった。89名の入学生が校門をくぐった。その中には入学手続きを終えていない人もあった。髙野さんは校門でこの日来る入学生を待ち受けていた。この大阪には義務教育未修了の人はいませんと豪語した教育委員会担当者に対し、「ざまみやがれ!」そんな気持ちであったと髙野さんはわたしたちに語っていた。
ごった返す校門のところで、立っている人がいた。事情を聴くと、名古屋から夜間中学に入学したいと新幹線に乗って駆け付けた。名古屋で報道されたマッチ箱の大きさの新聞記事をもってやってきた。しかし、教員に手続きが済んでいないと入学式の参加を断られたという。これを聞いた神部博之(入学生の代表で挨拶をする)さんは「後で手続きしたらよい、さぁ入って入って」と講堂に案内した。この出来事を髙野さんは何度も私たちに話していた。
聞くたびに、髙野さんはあなたならどう対応する?と尋ねられたんではないか。神部さん?それとも入室を断った教員?
57年後の教育行政の後退した姿勢は当日の出来事に現れている。
2026/6/7、この日は雨だった。雨の中を天王寺夜間中学校門が開く時間を待っている。同窓会総会や会場の準備をする人たちも校門前に立っている。早く準備しておかないとと、時間より早く駆け付けた夜間中学同窓会を支援する人たちも雨の中を待つことになった。校門は定められた時間にしか開錠されなかった。
天王寺夜間中学同窓生が開催したこの日の集会は、教育行政、夜間中学生、卒業生、教員、退職教職員にその姿勢を問いかける意義深い集まりであった。






















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