top of page
検索

夜間中学その日その日 (726)

  • journalistworld0
  • 2020年12月7日
  • 読了時間: 5分

髙野雅夫さんに聞く「義務教育未修了者を見つけ出す闘い」小林晃さんのこと(その2)

開設運動にとって貴重な新聞記事

(司会)大阪市の平野から兵庫県神戸市の夜間中学に通い始めたことを報道する毎日新聞の記事がありますね。

(髙野)当時大阪では、「越境」といって、住んでいる地域の被差別部落が校区にある学校には行かず、高校、大学での進学率のよい学校に通学する、越境通学が盛んでした。いま天王寺夜間中学が使っている校舎も、越境してきた保護者から徴収したお金でPTAが建てた建物なんです。「越境は差別である」と告発を受け、住んでいる地元の学校に子どもたちを戻す運動を大阪府や市はポスターや看板をつくってとり組んでいました。記事の見出しにある「越境かまいませんよ」が出て大阪府や市はあわて始めました。そんな意味でこれは大阪の夜間中学開設運動にとって貴重な新聞記事なんです。




毎日新聞 1968.12.14


(司会)記事の終わりの部分には次のようなコメントが載っている「髙野さんの陳情からAさんの実情を知った大阪市教委は13日、神戸市に迷惑をかけてすまない。設置を前向きに考えたい」。この記事を書かれたのはどなたですか?

(髙野)毎日新聞の伊藤さんで、心斎橋でビラ配りをしている記事も河内の少年院で話をした記事も、天王寺に開設が決まった記事もずっと報道してくれました。


(司会)記事が掲載された直後、神戸市教委が玉本校長、末吉先生を呼び出したことがわらじ通信にかかれていますが、髙野さんも行かれたんですか?

(髙野)行っていません。戻ってきて「教育に神戸も大阪もあるんか」と市教委に言ったと話していました。


(司会)映像にありましたが、小林君へのひらがなを書くところからの個別対応だけでなく、昼の丸山中学から、学齢の子どもの夜間編入、仕事で長欠状態になっている人たちへの家庭訪問の様子など、学校現場として大切な取り組みが映像になっていました。


井口府会議員が議会質問で紹介した小林さんの訴え

(1969.3.12)


(司会)リバティー大阪の夜間中学生展でも展示しましたが、小林君がかいた手紙ですか。

(髙野)小林晃が奪い返した文字とコトバで、届けてくれた。この手紙は。夜間中学開設の決断をするよう大阪府議会で井口正俊府議〔社会〕が質問をしたとき、読み上げられました。

(司会)写真が小さいので読みます。「わたしわ いま 夜間中学にかよっております。十六才の 男です。ちいさいときに びょうきになりました。がっこうにわ いっておりません。このあいだ たかのさんがテデビにうつりまして 夜間中学のことがでていましたので、おかあさんにでんわできいてもだいました。そのときたかのさんが さそくきてくでましたので いまわ こうべの夜間中学にかよっております。たのしくべんきょうしております。だかだ大阪市に夜間中学おつくって下さい。おねがいします 小林あきら」(原文)


「髙野さん、晃、マンガをみて、笑ったよ」

(司会)「16年目の入学」が放映されたのが1969年4月13日ですか?

(髙野)本当は天王寺夜間中学の開校は4月で、それにあわせて放送される予定でした。しかし、大阪市の教育界で一大汚職が明らかになり、開校どころではなくなった。教育委員会の丸山指導部長が教頭や校長になる人たちからワイロをとっていることが明らかになり、現役の校長教頭が逮捕され、教育長も和歌山で投身自殺するという事件があり、4月開校が出来なくなった。この日、小林晃の家でテレビを見せていただいた。

 その時おふくろさんがこう言ったんです。

 「髙野さん、晃、マンガをみて、笑ったよ」

ということは16年間、漫画を見ても文字が読めないから小林晃は笑えなかった。「髙野さん、晃、マンガをみて、笑ったよ」といった。だから文字とコトバを奪われているということは、そういう人間の感情まで奪われているという残酷さにものすごく腹がたちました。くやしくてなりませんでした。おふくろの一言は今でも忘れません。

(司会)この日、小林君の家でテレビを見たあと、梅田に行かれている。梅田の歩道橋で募集活動をされている。その時の写真ですか?

(髙野)そうです。芦田正明君、という少年というか、青年というか、彼との出会いはこの日、4回目の出会いです。夜間中学生募集のビラを家族に見せ、夜間中学に行きたいと相談したら、お姉さんがバカなことを言うな、夜間中学、そんなものあるはずがない、だまされたらあかん、定時制高校へいかなあかんと姉が言っていると芦田君が言った。姉さんにちゃんと説明をしたいと言ってお姉さんと会い、納得してもらった。4回目の出会いのこの写真は、天王寺の夜間中学が出来ても、今の職場から通えないから、会社を辞める挨拶にお母さんとでかける途中、歩道橋で出合った写真です。お母さんは「本当に夜間中学が出来るんですか?」と尋ねられた。「絶対出来る」ということで、納得して芦田君とお母さんは会社にでかけられた。




梅田の歩道橋 1969.4.13

(司会)真ん中が髙野さん、芦田君そしてお母さん。この写真を撮されたのは髙野さんじゃないですね。

(髙野)もちろんです。写真家の高山清隆さんです。どうぞ自由に使ってくださいとネガと写真を渡された写真です。

(司会)こういう言い方をしたら悪いんですけど、まるで小説を読むかのようなストリーで展開していくのですが、『チャリプ』を読み、髙野さんの話を聞いても不思議で不思議で・・。お聞きすると、仕組んだんじゃなく、自然と展開していった、改めてすごい!なと思いました。この日のわらじ通信には「人間の変革→地域の変革→社会の変革。この具体的事実が夜間中学の重要性を証明している」と書かれています。

(髙野)小林晃が夜間中学に行くまでは誰とも話ししない、しゃべらなかった。文字も読めず、マンガを見ても笑ったことがなかった。その彼が近所の人と挨拶をするようになった、しゃべるようになったとおふくろさんが涙を流してそういった。ただ単に読めるようになる、書けるようになるではなく、人間としての豊かさを奪い返していくということです。それと白井先生がいま「自然」といったんだけど。オレは「必然」だと思う。「必然」が「必然」を生んでいく。それは歴史に学ばない限りダメだ。歴史を学ぶということは、知識を豊かにするということではなく、過去のマイナスをプラスにしていくことです。(つづく)


 
 
 

Comments


Featued Posts 
Recent Posts 
Find Me On
  • Facebook Long Shadow
  • Twitter Long Shadow
  • YouTube Long Shadow
  • Instagram Long Shadow
Other Favotite PR Blogs
Serach By Tags

© 2023 by Make Some Noise. Proudly created with Wix.com

  • Facebook Clean Grey
  • Instagram Clean Grey
  • Twitter Clean Grey
  • YouTube Clean Grey
bottom of page