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夜間中学その日その日 (740)   夜間中学資料情報室

                                    2021.01.26

 福田雅子さんがお亡くなりになったことを(730)で書いた。第51回全国夜間中学校研究大会(2005年12月1日~2日)の記念講演を福田さんにお願いしたことも書いた。読者の方から、講演の内容の問い合わせがあった。51回の大会記録誌に収録していることをお話しした。改めて読み返してみると、夜間中学関係者以外の人たちにもお知らせしておきたいと考えた。夜間中学にかかわる部分を、4回に分けて紹介させていただく(編集部)


記念講演 「文字を覚えて夕焼けが美しい」

             元NHK解説委員      福田 雅子さん


 いまご紹介を受けながら、私は当時のことを本当に懐かしく思いおこしています。NHK大阪放送局にも解説委員を置くようになりましたのが私の定年の3年前でございました。少し前に東京には女性の解説委員が生まれておりましたが、みんな専門職としてやっておりますので、私は定年間際のところで、やはり大阪に置くというような制度ができまして、番組制作をするディレクターと兼務の形で仕事をさせていただきました。

そうしたご縁で全国放送はずっと定年後もしていたのですけれども、数年前から「関西ラジオワイド」といいますラジオの第一放送でだいたいレギュラーで、相撲があるときはちょっと休んでホッとしているんですけれども、夕方の4時から6時までのラジオ第一放送、「関西ラジオワイド」の中で5時41分から8分間、今は放送をしております。



 それと(財)世界人権問題研究センターというのは京都市と京都府で、(文部省が認可していますが、)できました。今は国際人権であるとか、部落問題とその歴史を研究するグループ、それから在日外国人の人権、私は女性の人権、(男性も一緒なので何とかいい名称にしたいのですが)広く障害者の方の人権だとかも担当する研究をしております。


 髙野雅夫さんとの出会い

 私の紹介で夜間中学、そして髙野雅夫さんの話もありましたが、何かもう少し細かい資料があったかと思いましたら、『タカノマサオとは何か』(みずのわ出版)の本の中でジャーナリストが3人、朝日、毎日新聞の人と私と取材の中からのお話を書いております。その中でいま懐かしいと思いましたので、少しだけ申しあげます。

 私はそのとき道頓堀橋(大阪)の袂にいたんです。取材を終え、タクシーを待っていたとき,髭の中に精悍な眼が光る、男性がビラを配っていました。背中には“教育は空気だ。空気を奪うな”というゼッケンが張り付いていました。1968年の秋でした。「何をしているのですか」と問いかけた私に、この人は答えました。「義務教育を受けた人は夕日という字が書けるだろう。夕日を見て本当に美しいと思えるのはその人が、夕日という字を識っているからだ」と。私はその頃も共働きで、6歳の息子と保育園から帰るときも、いつも夕焼けこやけの歌を歌ったりしてましたし、幼児だって夕焼けが綺麗なことは知っていると腑に落ちない感じでございました。

 私はこの話は大切だなと思ったら、割にそうしたことを実現してしまうほうなんですけれども、何と夜間中学の問題で放送に出ていただきます前に、『子どもをのばすもの』というテレビ番組の最終週に“未来に残すメッセージ”というコーナーがございました。そこで当時、同志社大学の総長でした住谷悦治さん、それから、原水爆禁止世界大会に日本代表として出られました婦人民主クラブ代表の藤田寿さん、そしてもうひとりと思っていたところに髙野さんというすごいいいメンバーで3人に出演していただきました。髙野さんは緊張気味でした。ゼッケンをつけて、すごい髭を伸ばしてあの時も入ってこられたので、実は化粧室のメイクの人も「福田さんこの人にどんなメイクをするんですか」と言いますから、「いやもうそのままでいいから」って当時はテカテカとひかるものはちょっとたたいて粉を振る程度だったんですけれども、髙野さんに初めてああいう姿でスタジオに出ていただいたのでした。


  「私は夜間中学生」放送の反響

 天王寺中学校夜間学級の入学式が行われましたのは、1969年の6月5日でした。89人の生徒が出席されました。そうして、テレビのニュースにも伝えまして報道できたんですけれども、燎原の火のようにという形で、どんどんどんどんこの放送の最中にも、たくさんの入学の希望者ですとか、それから「教育を受けていない、義務教育をうけていない人が日本にこんなにいらっしゃることは驚きだ」とか、衝撃を受けたという手紙、NHKの放送局長にも、「そうしたことに皆さん尽力してほしい」というようなお手紙さえいただきました。そうして実は本当に驚きますことに、次にまた夜間中学ができるわけです。この中でですね、菅南中学校に夜間学級をスタートさせております。もともとそういう構想もあったのでしょうけれども、まさに燎原の火のようにということでした。

 ここで、私たちが大変だったんですけれども、夜間中学に入る方が増えてきまして、名古屋の方なんかは、プラスチックのカナダライと衣服だけ持っておいでになりました。釜ケ崎のいろんなところのドヤ街も探したんですけれど、いっぱいになりまして、実はちょうど私は子どもを出産しました時だったので、(それまでの夜間中学への取材などはお腹が大きい間にしておりまして、)その人は私の家で私は何にもなしにお泊めするのは失礼だと思いましたので、二人目の子どもなんですけれども、「じゃあお風呂に入れるのを手伝ってください」とお願いしまして、お風呂に入る世話をしてもらいました。この方はやがて名古屋に夜間中学ができて、名古屋へお帰りになって、あるとき出会いましたら「ちゃんと学校卒業したよ」って言ってくださいました。

 こうした取材のところで次々と人が出入りしてドヤ街のほうもいっぱいでしたから、髙野雅夫さんが泊まるところもなくて、それで家はその頃団地に住んでたんですけど、「家でもいいよ」とかって言ってたら、NHKの同僚の男性達が「福田さんそれはやめたほうがいいよ」って言って、それはなんか、「いろんな仕事した人を全部泊めていったらやっぱり家族がちょっとビックリするんじゃない?」とかって、また別のところに泊めていただいたようなことでした。

 こうした中で『こんにちは、奥さん』の番組のあとも、天王寺中学校に入りずっと一年間を追いかけラジオドキュメンタリー『25年目の教室』を完成することが出来ました。これは時間があれば最後のところで少しだけ聞いていただきます。(つづく)

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