夜間中学その日その日 (759) 白井善吾
- journalistworld0
- 2021年5月31日
- 読了時間: 4分
証言映画「夜間中学生」(3) 2021.05.31
8人の若い夜間中学生の顔が大写しで出てくる。女生徒の生い立ちの語りが音声で流れ、電話の呼び出し音が流れ、タイトル「夜間中学生」が出る。
1967年の荒川9中には12~15歳の生徒が13人。16~18歳が17人。19~29歳が20人。30歳以上が4人。ほとんどが昼働いている。通勤が44%、住み込みが56%。
夜間中学生は塚原先生が向ける16ミリカメラに、髙野さんか向けるマイクに普段通りの話し方で、生い立ちや、毎日の暮らしの様子を語っている。両親がいない(18%)、母親だけ(31%)、父親だけ(6%)。実の両親ではない人も多い。
仕事内容は印刷所(2万円)、蕎麦屋店員(1万)、米屋手伝い(4千円)、プラスチック加工(5千)、製本工、自動車修理工、メッキ工、海藻店店員、菓子製造工など(手取り・月)。生徒と同じ姓の保護者は半分で2名の生徒は夜間中学の教員が保護者になっている。

夜間中学の一日を縦糸とするなら、さまざまな色や太さの横糸で夜間中学生が生い立ちや、毎日の暮らしの様子を被写体となり、語っている。これらの語りを文字化しておくことが重要ではないか。語りをまとめると上のような当時の夜間中学生の実態だという事ができる。
この実態に夜間中学生と共に、怒りを共有して時間を顧みず、全力でぶつかっている教員集団の姿も浮かび上がってくる。専任教員が6人(1名欠員)、時間講師の教員が5人でとりくんでいる。毎日の授業だけでなく、職場訪問、家庭訪問、福祉事務所、職業安定所等とりくみを行っていることが、証言映画の画面から読めてくる。
荒川九中夜間中学の風土を象徴するものが映画には写っている。登校して「こんばんは」と挨拶のため、夜間中学生は職員室の戸を開け閉めする。その戸のガラス部分に掲示してある張り紙だ。静止画像でないとその内容は読めない。静止するタイミングが悪く、文字が裏向きのときにしか静止できず、その画面を鏡に映して内容を読んだことがある。「どうぞ おはいりください だれにでも、何でもきいてください(どろぼう氏がおことわり)」漢字は「何」と「氏」の二文字の掲示物だ。職員室に自由に入っていって、先生に相談する、勉強を教えてもらう、体育が終わった後、何人もの夜間中学生がお茶を飲みながら話している場面も職員室内だ。保健室もなく、途中で調子が悪くなった生徒も職員室で寝かされ「職員室の椅子も生徒の即席ベットだ」(『ぼくら夜間中学生』11頁)に写真が掲載されている。これが荒川九中夜間中学の伝統で、授業が終わっても夜間中学生はなかなか家に帰らないのだ。学校を出ると厳しい日常がまっている。日常から解放される学校に1分でも長く居りたいという想いがそうさせている。宿直のおじさんに迷惑はかけられないので、「『一曲歌って』と、塚原先生が指揮をして学校を出ることが多かった」と髙野さんは語っている。髙野さんも職員室に何日も泊まり込んで映画の編集作業を行い完成させた。
こんな夜間中学生の24時間を知っても、夜間中学早期廃止勧告を出すのかという抗議と世論を喚起する意図を持った映画製作が最初の動機ではなかっただろうか。この意義に応え、荒川九中夜間中学の夜間中学生、教員、卒業生は証言映画を完成させた。
青森、北海道そして岡山と全国行脚を始めた髙野さんは夜間中学早期廃止勧告抗議から「夜間中学開設運動へ」ギアーチェンジを入れ替えた。京都で夜間中学を廃止し通信教育にという動きが髙野さんのいる岡山にも届いた。水平社宣言に出逢い、年末、東京に戻る途中、京都で途中下車して、次の展開を決めた。1968年1月1日の「わらじ通信」に次のように書いている。
「…半年間の全国行脚の中で俺たちの進むべき道をはっきり自覚する。いまのような社会体制の中で中立は絶対あり得ない―。搾取する体制側で生きる―搾取のない社会を作るために生きる―このどちらかだ。28年間受け続けてきた差別の歴史の中で俺はぜったい後者をえらぶ。なりふりかまわず―いきざまをさらして開きなおるのだ‼」
夜間中学早期廃止勧告反対から夜間中学開設運動へ証言映画「夜間中学生」に新たな役割が加わった。
50年たった今、公立夜間中学が5校、新たに開設された。それら夜間中学の動向を考えた時、証言映画「夜間中学生」から、私たちは何を学び、いま何をめざすか、「夜間中学卒業者の会2021年総会で議論し、知恵を結集したい。
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