夜間中学その日その日 (767) 白井善吾
- journalistworld0
- 2021年7月12日
- 読了時間: 5分
更新日:2021年7月19日
タンポポから始まった夜間中学の学び 2021.07.12
夜間中学は学校教育制度の中にある。夜間中学の教員は昼の小中学校の教員として採用され、あなたは夜間中学へ行ってくださいとして勤務しているのが夜間中学の多くの教員だ。転勤の時期には、昼・夜の区別なく移動がある。
夜間中学は義務教育の学校だから、昼の小中学校と同じ考え方で夜間中学を運営しようとすると様々な問題点が生ずる。年齢は16歳から80、90代の人たちまで、職業もあり、子育て中の人など、昼の小中学生の物差しを当てることができない人たちが学んでいる学校だという事ができる。
教科書は使いたくても使えない、中学校だから中学校の教科書をという事になっても、日本語の読み書きの習得状況が一人ひとり違う状態の中で、学齢の子どもたちと同じような展開は不可能だ。だから何をやってもよいという事にはならない。
わたしが夜間中学の授業に初めて臨んだとき、注がれる夜間中学生の視線が体全体に突き刺さる感覚であった。教員生活19年目であったが、私の間合いはとれなかった。夜間中学の教員になったらこんな授業をやってみたいと思っていたが金縛りにあって、自由に身動きができない。言葉もスムースに出てこなかった。果たして受け入れてもらえるのかどうなのか、心配の方が大きかった。
昼の学校のカリキュラムの流用はしない、今生きている場所に居座ってこの世の中を変える確かな行動ができる、その道筋を獲得する。そんな授業をやってみたいというおもいであった。

タンポポの花を教室に持ち込んで、セイヨウタンポポとカンサイタンポポの区別、そしていろんなところから採取してきてもらい、その採取地を地図に落とし込む作業を続けながら、タンポポのタネ、葉っぱ、根などを観察していた。4月初めはタンポポを題材にした。何年も繰り返し、分布を調べた。夜間中学生は広域から通っている。近畿夜間中学校新入生歓迎会と校外学習で行った先々でも調べた。都市化が進んだところではセイヨウタンポポ、そうでないところではカンサイタンポポと、区別がついてきた。5年前にはカンサイタンポポを容易に見つけることができたところも、5年後にはセイヨウタンポポに置き換わっていることも分かってきた。なぜだろう?自分の考えを文章にしてだしてもらい、次の時間、集まった説明文を印刷して配り、発表してもらう方法をとったこともある。時間はかかるが、書けなかった人は、発表を聞いて、自分の考えがまとまったと、説明文が届いた。
タンポポで授業を組み立てるとき、当初「食べる」という展開は想定していなかった。「食べる」展開を提案してきたのは夜間中学生だ。一人の夜間中学生が、大きな入れ物に入れた、タンポポのナムルを持参してきた。給食の時間になると、配られた。「この野菜は何?」「理科で勉強している」「タンポポの葉っぱ?」「へぇーなかなかいける」「おいしい」「ふるさとの朝鮮ではよく食べてきました」「休みの日、墓参りに行ってきて、摘んできました」こんな会話が交わされた。他のクラスにも配られていったのは勿論だ。
教科書に書いてあることに束縛されず、夜間中学生の活動に任せる展開をとる方法も夜間中学生が元気になれることに気がついた。いつも黙って聞いていることの多い中国籍の王さん。「タンポポは中国にもありますか」「中国語でどのように書きますか」と隣の夜間中学生が尋ね、自分のプリントに書いて見せながら二人だけで話していた。「みんなにも教えてください」。二人の会話を聞きつけた私はこのように言い、黒板に書いてくださいといった。「蒲公英」と書いて戻ろうとしたとき、すかさず「何と読みますか?」と声がかかった。カタカナで書いて読んで戻ろうとしたときまた声がかかった。口まねをして発音したが、少し違う。王さんは文字を押さえながら「プォコンウィン」ゆっくり発音した。全員で口まねした。何度か繰り返して、王さんは席に戻った。この時間、王さんが先生役を果たした。
夜間中学の教室には先生は一人ではない。夜間中学生一人ひとりが先生だ。中国語の先生、料理の先生、ミシン踏みの先生、漢字の先生、習字の先生、大工さん、左官屋さん。自転車の修理。それぞれの分野で先生がたくさんおられる。一人ひとりが持っている得意分野は大いに活躍していただけた。そのコーディネートするのが役割だと想った事もある。
職員室では、同僚から、理科はええ、いろいろものを持ち込んで変化に富んだ組み立てができるといわれたことがある。私は理科だけでなく、大いに他の教科の内容に進出していきますと答えたと想う。
夜間中学生が闘いに立ち上がったとき、自信を持って自らの考えを、文章に書き、主張する。「全夜中研大会で東京へ行くんだったら、文科省の人に話してきてよ、夜間中学生の想いを伝えよう」と声が上がり、会えなかったときのために生徒会の考えをしたためて手紙を書こうとの提案が出てくる事につながったのだと考えている。
ずっと後になって、わたしたちと同じ事をいっているとして意を強くしたことがある。齊藤孝「学校は何するところか」(『世界』2001.04)で21世紀の3つの基礎学力として〈まねする力・盗む力〉〈段取り力〉〈コメント力(要約力・質問力をふくむ)〉を提唱していた。わからなければ聞けばよい、暗記できるんだったら暗記したらよい、辞書で調べたらよい。辞書の引き方は勉強して慣れる。暗記してもすぐ忘れる。使わなければすぐ忘れる。そんなところで競う必要はない。こう考えると随分楽になった。「点数学力」とは異なる「学力」を自覚することができたと考えている。
夜間中学は教え育てる、教育ではなく、ともに育つ、共育をハッキリ自覚した。この考えを普遍化することも夜間中学の存在意義ではないだろうか。
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