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夜間中学その日その日 (782)    白井善吾

  • journalistworld0
  • 2021年10月18日
  • 読了時間: 5分

『こんばんは、夜勉です。』-大学生が夜間中学を学ぶ-(その3)

                              2021.10.18


 私が神戸市立丸山中学西野分校をはじめて訪れたのは、1989年であった。JR兵庫駅で降り、北西の方向に10分も歩けば校門にたどり着けたと記憶する。西野分校は、木造の建物の2階にあった。1階は幼稚園の校舎となっていた。太い木の柱が使用され、木枠に埋め込まれた透明の窓ガラスは建物とよく調和していて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。地域住民の熱い想いと願いを受け、住民の手によって建設された歴史ある校舎である。リバティー大阪が建設されていた場所は元大阪市立栄小学校で、西野分校と同じように、地域住民から寄せられた浄財で出来上がった歴史を持っている。



 畳の部屋で教員と話し込み、授業をみて帰りたかったが、急ぐように守口夜間中学に戻ってきた記憶がある。もう一つは、髙野さんが「西の玉本、東の塚原」と口癖のように行っていた、玉本格(元・丸山中学校長)さんに第35回全夜中研大会記念講演依頼のために玉本さんが主宰されていた「えんぴつの家」に玉本さんを尋ねたことを想い出す。障害者の社会活動の場として、パンの製造販売、沙織織りの事業が始まっていた。


 

何と言っても、義務教育未修了者であると名乗り出た小林晃さんを府県を越えて受け入れる英断をしていただいたのが玉本格校長であり、西野分校の教員の判断であった(1968.12.14毎日新聞「越境かまいませんよ、神戸の夜間中学に大阪の四人 尊い熱意拒めぬ、“映画の訴え”実を結ぶ」)。この歴史がどのように受け継がれているのだろう。


 第6章は土方麻由さんの「神戸市立丸山中学校西野分校70年の歴史」は髙野夜間中学資料を整理する作業を通して西野分校70年の歴史を自分なりに後付けすることを目標とされた。水本先生はコラムの中で「制約や障壁ばかりが目の前にそびえていて」と論文作成が進んでいくのか悩んだテーマでもあったと述解されている。授業見学も無理、先生へのインタビューもできない、生徒や卒業生からも話が聞けない状態での研究であった。土方さんは全国夜間中学校研究大会史料を読み進める方法として大きめのカードにメモをとり、あとでカードを事項別に分類する手法のアドバイスを仲間から受け、研究を進められたと水本先生は書かれている。

 西野分校は1951年、当時小学生42名、中学生107名の在学者を教員4名、事務官1名の運営で始まった。1957年度から中学生部のみの運営となった。在学生の就学歴はさまざまで、社会的経歴も含めて、一斉授業を行なうのはきわめて困難で、西野分校は学年を無視した能力別クラス編成を採用、教科によっては複数教員での指導方法に変更し、生徒の多様性に対応しようとした。起ってきた問題点として、「生徒一人ひとりの教材作りに追い回され、個々の教員の加重負担」が発生したこと。普通教室3,技術教室1と数も面積も小さく、生徒全員の集会場に困る等の問題点もあがっているとの記載のカ所を土方さんは指摘されている。

 この問題点を解決するため、教員は ① 県下に夜間中学の増設 ② 夜間中学の施設、整備 ③ 学級定数の切り下げと教員の増配 ④ 養護教諭、事務教員の配置を提言している。

 1973年になると門標の設置、全員に無料の弁当給食が実現。また分校独自の「丸山中学校就学奨励金」が実現した。これらは「夜間中学生の『心の叫びを代弁』した教員の訴えである」との記述を土方さんは紹介されている。


 震災後、太田中学に移転した西野分校を髙野さんが尋ねたとき、夜間中学生から「学校が生徒会結成をさせてくれない」との訴えが髙野さんにあった。なぜなのか?その頃の髙野さんは、夜間中学生の代理はしない、それは夜間中学生が自らの力でやることだという姿勢を貫く一方、つくらせない理由を関係者に尋ねていったが、いまだ、納得できる理由は聞けていないという。

生徒会活動による要求ではなく、夜間中学生の心の叫びを教員が「代弁」したとの展開方法は間違いではないだろうか。夜間中学生のこの声をどうして生徒会のとりくみにできなかったのだろう。土方さんは夜間中学生の次の訴えを紹介しておられる。引用する。


 むりを しょうちですけれども、このばしょで 学校を プレハブでも  たててほしいです。(中略)西野分校が、ほろんだら、し(市)のひとも、あんまりやとおもうやろうと おもいます。水木小学校だと、もう あすに 水木へ いって もとのばしょ(西野分校)に プレハブでも ひとつ たててほしいです。 むりは しょうちで いいます。 むりは しょうちで。せんせいたち、しんぱいするの よくわかります。 けれども わたしらは この ばしょ(西野分校)で したいです。この ばしょで かせつ ひとつ もらうように して ください。*( )は土方さん注記


 この夜間中学生の声は一人ではなかった。生徒全体の声にして、生徒会のとりくみに組み立てていく、そんな展開がどうしてできなかったのだろうか?


 2017年度「震災資料室展」で、西野分校の元教員4名の座談会をもたれた。座談会の記録が本著に収録されている。その中に「生徒の想いを背中に背負って前に進め」「生徒の思いを、なんとか叶えてあげたいとの思いを込めた」、1972年から75年に勤務した教員の発言が収録されている(71ページ)。この時期は、近畿夜間中学校生徒会連合会が発足した時期で、大阪府内の夜間中学を持ち回りで結成準備の会議を開き、近畿の他府県にも拡げるため、兵庫県、奈良県でも、会議を持ち、西野分校で集まりをもつことを書いた印刷物がある。その集まりの結果を伝える文書は確認できていない。

 2020年12月、水平社博物館現地学習会で生徒会の必要性について西野分校のある教員は「その通りだ。10年早ければ結成できたかもしれないが」と発言されていた。今の夜間中学生の実態は日本語の習得が最優先で、個別の課題を解決するのが精一杯で、とても仲間のこと、夜間中学の事を考えることはできていない、ということか。だからこそ生徒会のとりくみが必要だと考えるのだが。

 土方さんの報告は夜間中学の在り方を考える示唆に富む論文だ。(つづく)

 
 
 

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