夜間中学その日その日 (807) 白井善吾
- journalistworld0
- 2022年2月6日
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夜間中学書籍解題 田村隆幸著『ふまじめ教師の市民教育運動』 2022.02.07
「負けたわ、夜間中学の実践を通して教育運動へ、日曜学習会、そしてルーツを中国にもつ子と親の会『小草(シャオツァオ)』のとりくみへと」。あるとき、畝傍夜間中学の吉川弘さんがしみじみと言ったことが想い出される。さらに、「当然の展開だ。しかし、それを実行できるところがすばらしい」と加えて言った。
その田村隆幸さんが『ふまじめ教師の市民教育運動』(かもがわ出版 2021.8)を出された。田村さんは奈良市内の公立中学校の教員として1983年スタートされた。「2020年、僕は60歳になった。職場は38年間、ずっと中学校だった。学校は膨大な時間をかけて『僕』という人間を育ててきた」。まえがきの冒頭の2行だ。
この記述に引かれるように、畝傍夜間中学30年の記念行事に参加した帰りの電車で読み進めた。私より一廻り以上離れた年齢の田村さんだが、政治と社会と教育、そして学校と教室、子どもと保護者をつなげて実践されている姿勢に感銘を受けた。

まえがきは続けて「学校は教員にとって仕事の場であり、学びの場でもある。葛藤の場であり、苦しみの場でも、楽しい場でもあった」。読み進めながら、私の教員生活の出来事と重なってきて、本を閉じ、何人かの子どもや親の顔、そして職場での議論を思い起こし、何度も深呼吸して読み進めた。
「上からの指示には無批判で、全力で応えようとする。職員室の中の仲間内での会話でさえ教育委員会や管理職の批判をする人はいない」との記述のくだりは、想像はできるが私は、納得がいかない。どうしてそうなるのか?
私の場合、44年間の教員生活で19年目に、夜間中学に勤務することになった。そこに11年勤務の後、4年間昼の中学校に勤務した。そしてもう一度夜間中学に11年間勤めた。退職したのは67歳であった。昼の学校に勤務した1998年から2002年の4年間、その後の2014年3月まで11年間の夜間中学教員であった時でも経験したことのない、急激な変化が学校現場で起っていることになる。
2001年、田村さんは4校目に、奈良市立春日夜間中学に転勤された。私はこの夜間中学勤務が田村さんにどのような影響を及ぼしたのかに注目した。こんな記述がある。「苦労を背負い生きてきた、生身の人間が目の前にいた。教師と生徒という立場だが、学んだことで判断すれば明らかに僕の方が生徒のようだった。僕は文字や言葉という知識を教える代わりに、人間の歴史を学ばせてもらった」。
また次の記述もある「夜間中学校に関わる人たちは、この高学歴社会の陰で生きづらかった人たちの人生という『社会的財産』からこの社会の問題を吸収し自らも学び成長しているのだから、『学校』のあり方を通して次の世代の社会の向上に向けて返さなければ社会は進歩しない」。
そこで田村さんの出した答えが、日曜学習会、そしてルーツを中国にもつ子と親の会『小草(シャオツァオ)』のとりくみであるというわけだ。詳しくは本書を見ていただきたい。
私の場合、夜間中学3年目の時だった。中国から引揚げてきた、一世・二世の夜間中学生から相談があった。「子育ての真っ最中で、夜間の授業には毎日出席できない。幼い子どもたちだけを家に置いて通学できない」。どうしたものかとの相談であった。聞くと、学校に来てても子どものことが心配で、夜間中学に設置している公衆電話で、様子を確かめながら勉強している。そして大急ぎで家に帰っている。職員会議にも諮り、出した方法が何人かの教員が分担して昼の時間帯に授業を実施することになった。
通学に1時間近くかかる、ある府営住宅には多数の引揚げ帰国者が入居していた。夜間中学をやめてしまった人たちも何家族か暮らしていた。日本の生活習慣になじめず、団地の自治会長から夜間中学に連絡があり、訪問したときのことだ。生活習慣の違いから、月1回の共同清掃作業や騒音、ゴミ出しなどで問題が起っているとの連絡であった。これが初めてではなかった。夜間中学生とも話合いを持ち、団地内の集会所で日本語教室を開催することになった。月2回の開催となり、自治会の役員さんも参加して、日本語中国語の勉強会になった。餅つきや水餃子づくりも企画し、夜間中学卒業生の応援もあり、1年近く続けることができた。しかし、多忙で、それ以上は続けられなかったのが本当のところだ。
田村さんは夜間中学の日曜日を会場として学習会を始められた。もちろん夜間中学の教員も関わってのとりくみであった。普段出席できない夜間中学生も参加し、孫や子どもたちも加わってにぎやかさを増した。そのうち、夜間中学生が中国語の先生となり、教員や子どもたちが生徒となった。また、子どもたちが、親や祖父母に日本語を教える展開になっていった。田村さんは夜間中学から昼の学校に転勤後も無料学習塾「すみれ塾」郡山教室、特定非営利活動法人「市民ひろば なら小草」の結成と無料学習塾「すみれ塾」なら教室開設。そして、「学びのフリースペース小草」の開設と活動を継続されていった。
それは「学校や社会で生きづらさを感じているすべての人たちが、生きやすくなるとりくみが必要だと考えたからであり、それは、教育としての『行きつく先』であった。そしてそれは誰から指示されたわけではないが、自然に学校のできることと、できないこととの隙間をうめることになっているはずだ」と述べられている。
続けて、著書では、教育現場の窒息状態がどのように進んでいるかが記述されている。夜間中学の学びを私たちは「学びは運動、運動は学び」という表現をするが、その夜間中学の学びを教員が見事に実践されている。
「市民のひろばなら小草」から「すべての人に無償の普通教育を」基金の協力を呼びかけるチラシが折り込まれていた。基金の協力方法は「学びのフリースペース小草」(https://www.naraogusa.com/)に掲載されている。
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