夜間中学その日その日 (848) 白井善吾
- journalistworld0
- 2022年10月16日
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形式卒業者 について
不登校などで実質的には教育を受けていないものの、中学の卒業証書をわたされた人たちのことを「形式卒業者」と呼んでいるのだが、「形式卒業者」の用語はいつから使われはじめたのだろう?そんな質問を受けた。即座には答えられなかった。その扱いを受けた人自身が、「形式卒業者」を使うだろうかという疑問も問われた。
昼の学校に勤務していたとき、この用語は知らなかった。私が初めてこの言葉に接したのは、山梨県甲府で開かれた日教組全国教研(1972年1月)に参加した「人権と民族の教育」分科会である。衝撃的な出会いであった。『자립(チャリップ:自立)』(修羅書房)に分科会を写した写真が収録されている(797~804頁)。
1972年4月であったと思うが、『キケ人や-夜間中学育てる会の記録-』(1971年9月1日発行)を入手した。それには、全国教研で聞いた告発文が収録されていた。学年の教師集団にこの冊子を紹介したとき、自筆の「夜間中学全国大会体験論」をつかって、「まなぶ」ということを考え、深めることができないかを教材化し、ホームルームの授業に使ってみようということが学年会でまとまった。夜間中学生が書いた体験論には重要な指摘がある。教員一人ひとりの姿勢を問い質したもので、自らの姿勢を子どもたちに明らかにすることが前提だと考え、そんな使い方ができないかと意見をいったように記憶している。さらに10年後、転勤した新しい職場で、「私は夜間中学生」(NHKこんにちはおくさん)の16ミリフィルムを上映したとき、一人の先生はこの体験論を使って授業を展開された。
この体験論の中に、「形式卒業者」のことばが5箇所ある。
「『空、山、川』などの簡単な字以外は新聞も読めないし、九九もわからない、足し算、引き算、計算は指や足でやればできるが、34+89は前からやるのか、後ろからやるのかぜんぜん見当がつかなかった。時計の見方や電話のかけ方など日常生活に必要な知識が何にもわからず、毎日苦しんだ」そして「こんな私でも9年間の義務教育を受けたことになっているのです。卒業証書をくれた情け深い中学校があったんです」と形式卒業者の実態を説明している。
「最後に、文部省、厚生省、労働省、教育委員会、全国夜間中学の先生方に質問があります。1.私のようなかけざんの九九もできないような人間を中学卒業者だと認めますか? 2.私たち形式卒業者をなぜ、夜間中学校ににゅうがくさせないんですか? 以上の質問を私たちに、分かるように答えてください」で終わっている。

1972年1月、日教組全国教研(山梨)で夜間中学生が厳しく告発する場面に出会い、その衝撃がさめやらないまま、大阪に戻り、『キケ人や』でこの体験論を見つけたとき、その時の大きな衝撃がよみがえり、この告発に応えられる教員でありたいと強く思った。
山梨教研の予想だにしなかった経験は、私だけでなく、教研参加者は大きな衝撃を受け、職場ではこのできごとが繰り返し語られていた。そんなときの、手書き文の「夜間中学全国大会体験論」の紹介ということもあったのかもしれない。教員自らの授業に臨む姿勢を問い、子どもたちに「突き刺さる授業」、狭山差別裁判の石川青年を取り戻すとりくみへと、大きな展開につながったと考えている。授業ボイコットを繰り返す子どもたちとのぶつかり合いの中で「夜間中学全国大会体験論」の主張についてその子どもたちとよく議論した。
夜間中学に転勤して、夜間中学のあゆみを知っていくと、「形式卒業者」を夜間中学に正式な生徒として入学を認めるよう、文部省担当者に直接、夜間中学生が告発するとりくみが行われていたことを知った。17回全国夜間中学校研究大会(1970.11)と18回の大会(1971.11)、2年越しの大会で、文部省担当者に入学を認めさせ、18回大会では大阪府、大阪市教育委員会担当者も認めるとの発言を行なっている事を知った。
はじめに書いた、いつから「形式卒業者」が使われはじめたんだろうということに戻ると、1970年以前に使われていたのかということになる。髙野さんが全国行脚で映画フィルムと共にもっていった文集『ぼくら夜間中学生』は荒川九中10年間の記録に収録された、1957年~1967年の80人の作品を見ても「形式卒業」「形式卒業者」に類する言葉は見つからないし、そんな経過で入学しているという文章も見つからない。文集に収録された夜間中学生徒募集を見ると、「入学の許可の条件は学校によって多少異なるが」と前置きがあって次のように書いてある。
「①家が貧しいこと ②中学校を終えていないこと ③学力はなくてもよい
④年齢制限はなく、学年編入ができる ⑤入学は4月かぎらずいつでも認める ⑥費用はほとんどかからない―などですが、大切なことは小学校を終えていなくても、とにかく遠慮なく相談することです。便宜をはかります」
とある。
14回全夜中研大会(1967年11月)の資料の中に次のような記述がある。
「義務教育をすでに終わっている人です。中学は卒業して働いているのだが、どうも実力がなくて困る。今の仕事をやる上でも困っている。という人が入学させてくれといってくることがあります。いろいろ調べてみると本当に力がない。実力がない。これでは実社会で困るだろうと思うのですが、入学はさせられない、すでに中学を卒業しているのですし…」(14回全夜中研大会資料56頁)と「形式卒業」の用語は用いられていない。
『夜間中学 疎外された「義務教育」』(塚原雄太著、1969.9.25、社会新報発行)に 「温情も仇の形式卒業」(259頁)の記述がある。卒業証書を2枚発行することはできないという考え方は当時の夜間中学教員間では定着していたのかもしれない。この考え方に異を唱え、改めるよう行動を起こしたのが17回、18回全夜中研大会の夜間中学生たちであった。
自分自身のことをいうのに、「形式卒業者」という言い方をするだろうかということについては、最初は抵抗があるかもしれないが、当事者は、そのような扱いしかできなかった、義務教育体制を告発しているわけだから、自分自身の存在を客観視して、「形式卒業者」という言い方はあり得るのではないか。
回答になっていないが、留意して更に資料に当たっていきたいと考えている。
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