top of page

夜間中学その日その日 (964)  白井善吾

   髙野雅夫夜間中学資料の魅力 ② わらじ通信   2024.4.14


 証言映画「夜間中学生」の16㍉フィルムを携え、髙野さんが全国行脚に東京を発ち靑森に向かったのは、1967年9月5日。靑森・北海道の54日(67.9.5~10.28)。岡山の72日(67.11.6~68.1.24)。京都の106日(68.2.6~5.21)。大阪の214日(68.10.11~69.6.8)。あわせて446日。行脚先から1日も欠かすことなく、当時7円の官製葉書にその日の活動を記し、母校荒川九中の在校生宛に投函した。荒川九中夜間中学生と共に上映運動、夜間中学開設運動を実行しているという認識に基づく。そのハガキを髙野さんは“わらじ通信”と呼んでいる。髙野さんから届いたハガキは、母校の在校生に紹介され、後に髙野さんに返却された。しかし、所在がわからなくなったハガキも何枚かある。




 リバティ大阪(大阪人権博物館)の特別展「夜間中学生」展(2017/10/18~12/16)でわらじ通信を展示することになった。相談した結果、来館者には一枚一枚読むことは出来なくなるが、わらじ通信の全体を知って頂こうと、厚めの模造紙に、ハガキの四隅をホルダーで止め、隙間なく敷き詰め展示する方法を採用した。この展示を見た来館者からさまざまな質問を受けた。「全体で字数は?」の質問が一番多かった。「ハガキ一枚、平均 1000 字、461 枚あるから、45 万字、ノートに控えをとっているから、倍の90 万字。驚くべき精神力です」と説明していた。


 髙野さんはその日の活動を終え、宿が見つからないとき、駅のベンチを机にハガキに活動報告を記し、投函する前にノートに書き写し、控えをとって投函した。そのおかげで、「所在のわからなくなったハガキの内容も復元することが出来たんです」と説明されていた。461枚を展示したとき、微妙に色合いの違うハガキがあったが、ハガキ大の用紙に、控えを元に復元したわらじ通信が混じっていることが原因である。

 報告内容が多い日は、ハガキの裏面を埋めた後、宛先を記した、下に横線を引き、続きを記入したハガキ。それでも書き終わらないときは、新たなハガキに記録する方法をとっておられる。

 奈良県御所市にある水平社博物館で開催された「夜間中学生展」(2020/12/4~2021/4/4)に、わらじ通信(1967/11/8 No.3号外)が出展された。やはり、所在がわからなくなったが、控えをとっていたから、内容を復元できた一枚である。




 「被差別部落での上映運動に夢を馳せて乗り込んだ11月8日、そこで生まれて初めて言われなき部落差別のきびしい現実を突きつけられ、水平社宣言に出逢った。部落解放同盟の人からもらった水平社宣言を、夜、懐中電灯の光で必死に一字一句食い入るようにむさぼり続けてきた時の衝撃はどんなコトバでも表せられない。心臓が火を噴き、頭と心と体がバラバラに爆発するように、歯がガチガチして震えがとまらなかったことを、今でもはっきり覚えている」(『夜間中学生 タカノマサオ』解放出版社)。


 水平社宣言との出逢いを著書でこのように書いている。そしてその日の“わらじ通信”は


これだ!!これだ!!これだ!!これが俺たちの叫びだ!!…この「宣言」のもとを書いた西光万吉という部落の青年は警察に追われながら、京都のガス会社の修理工となり仕事の合間に物干台にかくれて、寒風の中血を吐くような思いで書いたという。夜間中学生の皆さん…俺たちは口惜しくないか!!一字・一字よくよんでほしい…俺たちが誰のために何をしなければならないか判っきりわかるはずだ。もしわからないなら君たちは本当の夜間中学生じゃない…荒川九中の勉強は全くウソッぱちだ。

 

 髙野雅夫夜間中学資料室には髙野雅夫さんがロウ原紙でガリを切り、書き写した全国水平社宣言文と共に、わらじ通信が保存されている。当日、感動に震える手で書き記した、わらじ通信が見つかれば、どんな文字が並んでいるのあろうか。


Featued Posts 
Recent Posts 
Find Me On
  • Facebook Long Shadow
  • Twitter Long Shadow
  • YouTube Long Shadow
  • Instagram Long Shadow
Other Favotite PR Blogs
Serach By Tags
まだタグはありません。
bottom of page