夜間中学その日その日 (995) 白井善吾
髙野雅夫夜間中学資料の魅力⑨ 和歌山の夜間中学 2024.10.05
岸城夜間中学訪問を後に、朝日の同行記者のペースに引きずられて、「夜道の山越えはしない」と決めた原則を破り、1975年6月16日の深夜、和歌山に入った。和歌山県には安原、野上、御坊、切目、日置、西向、本宮、緑が丘、城南の9校の夜間中学を3日かけて訪れている。髙野さんが各夜間中学に送ったアンケートの回答は1950年から55年頃まで開設されていた夜間中学で閉校後20年が経過していた。夜間中学に限らず、20年の時間的経過は当時の夜間中学担当者がいない限り忘れ去られてしまっているのが現実であろう。
「자립通信」には各学校の応接の様子が綴られている。自分がその応接に出たとき、どのように言葉を交わしただろうか。
野上中も海南市に合併され東海南中学=海南市野上中590、校長・教頭共に出張でルスのため、判断に困り3人の先生たちから運動の主旨、組織、この前訪問された東京の夜間中学の先生(新星中 上田先生のこと)との関係などをかなりしつこく聞かれる―正体不明のものを受け取って問題が起きたら困るのかな?これだけのものをタダで配る真意を計り知れない―というのが教師たち共通の反応だ。せんこうたちの貧しい思想では当然だ。「これは学校からでなく私たちの気持ちです」と茶色のシャツを着た先生が辞するカンパを자립号までとどけにきてくれる。カンパを拒否することの困難さは―カンパを受け取ることより困難だ。
御坊中学=「そんなアンケートきてた?」「知らんな?」「校長も教頭もおらんし」 校長か教頭しか判断ができないのか‼ どこに行っても校長へ―教頭へとたらい廻しされる―まるで係長へ、課長へ、部長へとたらい廻しされる役所のごとく―本1冊受け取ることも自ら判断できないヤツが子どもの生・死を決定する教育をやっているのだからゾッとする。まさに赤紙一枚で殺される戦場そのものだ‼ 時計台を中心にした新校舎はまるで“大学”のごとくそびえ建つ―その中身は?教師とは一体なんなのだ?労働者だ!いや奉仕的責任を持った労働者だ‼ ―日教組よ?!全国のせんこうよ?!もうあんた達に期待は持てない―毎日せんこうに会っていてツクヅクあいそがつきたぞ―俺たちのことは俺たちの力でやるからジャマだけはするな‼ =協力しなくてもいいからジャマだけするな‼=
切目中学校=真新しい鉄筋校舎にムカムカして俺たちの眼に古い木造校舎はㇵッとするような新鮮さを呼び起こす―平尾校長「正直いって1回や2回の問合せなら、お答えしなかったかもしれませんが、何回もお手紙下さったのでこれは本物だと思いましてね、そのお手紙を同和教育のまとめをやられている先生がぜひ貸して欲しいと持っていかれたのですよ。うちの生徒でも学校だけでは解決できなくて24時間指導できるよう施設にお願いしたケースもあるのですが、その生徒がよく校長室(玄関脇にある受付みたいなところ)にあの先生がこういった―こんな事があった―とよく来ていたのでなくなると淋しいものです」。奥は「農民道場」手前は「海軍兵舎」だったという歴史的校舎も来年には鉄筋校舎になる―農民魂と海軍魂と夜間中学魂―まさにルンプロ元年屈辱の歴史(うらみ)を受け継ぐ仇討ちは…その捨て石になることこそ夜間中学魂の生命なり―
日置中学―西向中学行「条件なしで頂けるんですか?」という教師のコトバにア然―何の条件を付けるのだ。見返りを求めたらこんなとこまでアホらしくて来れるか‼ 同和教育だの― 部落解放だの― この調子じゃ何千年たっても部落解放は絵に描いたモチじゃ―
緑ヶ丘中、城南中訪問――자립号の本棚をみて「良い本つんでるね。この大逆事件で殺された人が新宮にも一人いるよ。医者でね。金持ちから金はとるが貧乏人からは一銭もとらない、夜中でも金持ちなら断るけど貧乏人ならすぐ飛んで行った人だよ。新宮にお墓もあるよ。」その魂が今、新宮に受けつがれているのか?!貴重な手紙を頂いた二河良英校長先生の入院先にTelしてもらうがもう退院されたともこと。「種から肥しへの旅」について朝日新聞の千本さんから色々質問ぜめ――形を拒否し質を奪い返す今度の旅は中々理解されないようだ。形(成果)万能時代にさもありなん…。だからこそ質を最優先させるのだ。
髙野さんはアンケートを何度も送り、回答を求めていたことが校長の発言からから分かる。자립号は和歌山県から三重県に入り芭蕉の生地・伊賀上野市 崇広中学に向かう。
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