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沖浦和光先生の思い出 3 Journalist World ジャーナリスト・ワールド

  • 川瀬俊治
  • 2017年12月7日
  • 読了時間: 2分

 広島港に降り立った沖浦先生らの一行は、一路、広島修道大学に向かった。

(写真提供:池田知隆)

 大学には解放教育の理論家である江嶋先生がいることもあり、立ち寄ることになった。研究室を訪れると江嶋さんと学生2人ほどしかいなかった。

 沖浦先生は何度も広島を訪れ、特に瀬戸内の島々を回られてフィールドワークを重ねておられた。、江嶋先生とも昵懇だったようだ。

 同行の野間宏さんは、少し疲れれていたのか、研究室のソファに腰を深く下ろしておられた。いま、思い出すとその印象がある。

 どうも江嶋先生は次の目的地にほかの教員、学生を「招集」をかけていたよらで、気もそぞろの感じだった。

 一行は、研究室にものの30に分もいなかっただうでろう。歓談も早々に繰り上げて、次の目的地へと急いだ。

 案内役は江嶋さん。三次市をへて三良坂の石田さん宅へと急いだ。

 石田さんは父親が竹細工を生業としていたことから、父亡きあと、その竹細工に従事することになるのだ。

 広島のマツダに勤めていたのを辞めて、竹細工修行に入られた。実に40代に入ってからの大転換なのだが、石田さんは難なく技術を身に着けてこられた。

 一方、石田さんは秋だけ まったけ を収穫して販売する仕事に就かれ、訪問時にはその収穫の最盛期にあたった。

 自宅には朝に収穫した まったけ が、竹籠に 山盛り に準備されていた。

 広島修道大学の学生も何人か参加していたが、まったけを見て、「ワーすごい」と歓声をあげた。

 用意されたのは、まったけ のすき焼き だった。

 こんな贅沢に まったけ を食べたことは後にも先にもない。

 野間さんが石田さんの竹細工の作品に感心して、「名前をつけましょうか」と石田さんに言われて、別室に閉じ込まれた。

 30、40分はおられたどろう。

 筆にしたためて半紙に書かれたのは「石田けい源」だった。「けい」は旧字で表わせないが、頸 の 頁 をとって 代わりに巡 のしんにゅう をとった 作字 したものだ。

沖浦先生は まったけ を ほうばりながら、思わぬ展開に大喜びされたのが、いまも思い出す。

宴会は夜遅くまで続いた。

 
 
 
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