夜間中学その日その日 (1056) 夜間中学資料情報室
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髙野雅夫さんと語る連続講座 (その1)
髙野雅夫さんと語る連続講座(全12回)2012/6/2~7/29を開催した。「夜間中学開設運動にとりかかるまで、その原動力は?」「大阪での開設運動とその教訓」「全夜中研 第18回大会」「夜間中学を育てる会を中心とした夜間中学運動」「韓国留学と日韓識字文解交流」「17項目の公開質問が提起していること」「太平寺夜間中学独立化運動が持つ意味」「『アリとゴジラ』夜間中学生の闘い」「夜間中学の生命線」「タネの思想、コヤシの思想」「まとめと課題、国連識字の10年」が各回のテーマであった。報告者から報告を受け、対話者と意見交換をした後、参加者全員で議論をするという進行方法であった。参加者も延べ30名を超えた。当時71歳の髙野さんは一人の参加者として、議論に参加された。その記録から髙野さんの発言部分を紹介する。

◆なぜ東京とそっくり同じになってしまったのか
髙野:東京の夜間中学卒業生・髙野雅夫です。まずですね。「髙野雅夫さん」と言われるのがすごいいやなんです。わが恩師・塚原雄太も俺らが在学している時は、「おい、髙野」と言ったのに、夜間中学の運動をし始めたら、「髙野さん」って。「髙野さん」と言い始めると必ず堕落する。特に奈良なんかは「生徒さん」って言うんだけど、あれは本音で言うと気持ちが悪い。「髙野!」って言われた方が、その塚原雄太も去年なくなったんですが、だけどそういう連絡が俺たちにはまったくありませんでした。それが東京の夜間中学の現実を見事に象徴している。それで白井先生からこういう話があった時、実は今回2ヶ月、大阪に来たのはこの会場の後ろに並んでるように、守口三中が一生懸命作った本があんなにいっぱいあるんで、その本を売るために営業マンとして来たんです。だからこんなことをやるなんて夢にも思っていなかった。
◆東京とそっくり同じになってしまったのか、その原因を俺たちは是非、聞きたい
今からこんなことやっても、もう手遅れです。手遅れだという厳しい現実を話します。明日天王寺夜間中学で、同窓会総会がある、毎年6月に。その時に谷さんという同窓会の会長に電話して毎年と同じように本を売らしてくれと言ったら、ああいいよ、いいよって言われてたんだけど、教頭から谷さんに連絡があってだめだっていうんで、おととい天王寺中学に行ってきました。
教頭さんが何と言ったと思う。「学校の中で物品販売や政治活動をしてもらったら困ります」と。だから僕は、守口三中の『学ぶたびくやしく 学ぶたびうれしく』と『夜間中学生―133人からのメッセージ―』並べて、「先生、これが物品だというふうに思いますか」と。「橋下が奪ったパンと牛乳を自分たちで奪い返すために、この販売の活動をしていることが政治活動だと思いますか」と。「これから僕が天王寺駅の歩道橋に行って本を販売して、市民の皆さんがこれを政治活動だと思いますか」と聞いたら黙ってた。「とにかく同窓会は親睦を図る場だから、そういう物品販売と政治活動はやめてほしい」と言った。
ついに大阪の天王寺中学もここまできたか、それはかつて俺たちがもう10年以上前か、大阪の夜間中学が東京並みになったといってることが見事に証明された。かつて東京でも同じことを言われたんです。
関東夜間中学連合会がつぶされた時に、わが母校荒川九中の同窓会で、こういう形で自発的に作っている活動がつぶされたんだけど、みんなどういうふうに思ってるかと同窓会で発言したら、同窓会担当の先生が「同窓会は親睦を図る場だから、そういうことを語る場ではない」。見事に、別に天王寺の教頭先生と母校の同窓会担当の先生が打ち合わせをしたわけじゃないんだけど、見事に同じせりふを言う。
かつて琴城分校で写真集を撮られた宗景さんの本を、小松川二中に僕が持っていった時に、先生これ関東でも販売協力してくださいと言ったら、髙野さん職員室で販売はしないでください。それで教頭先生にも話したんですけど、「東京で言われるんなら分かるけど、大阪のしかも天王寺中学の教頭からそんなことを言われるのは信じられない、先生、今言ってる言葉の意味が分かりますか」。つまり、橋下にものすごくおびえている。そういう現実の中で僕はもう手遅れだと思ってる。だけどいよいよ大阪もこういう危機がきたのだと、例外はないと思ってる。
それは隣の韓国で、萬稀(マンフィ)さんたちが20年以上がんばって、識字の法律化を勝ち取りましたけど、その中で、「成人基礎」という生命線である文言が削除され、萬稀さんたちが作った組織からも「成人基礎」という言葉がはずされている。だからそういう状況の中で、こういう話し合いの場が今もたれています。
さっきから先生がたも何回もおっしゃっているように、なぜ東京とそっくり同じになってしまったのかということを、その原因を逆に俺たちはぜひ聞きたいんですよ。大阪の夜間中学の先生たちに、近畿の夜間中学の先生たちに。なぜそういうふうになったのか、信じられないですよ。
◆45年間歩いた意味は何なのか
1966年に行政管理庁の勧告が出た時に、もう怒りくるって体の震えがとまらなかったんだけど、おととい教頭の話を聞いたときはどういうわけか、なんかあまりにも悲しくて涙が出そうになった。それは俺が71歳になって老いたのか、かつてのような怒りがなくなったのか。自分自身に問いかけながら、45年間歩いた意味は何なのかと考えながら眠れなくなって…。そういう中で、もしこの講座を続けるとしたら、是非、過去の歴史と同時に、今の現実と、資料の2枚目にあるおれの図を三つセットにしてぜひ考えていただきたい。本当はこの図について、生徒たちと一緒に、これを本当にやりたいんだけど、そういう今の心境です。
〈解説〉妥協はしない、原則を貫く。それを黙認したら、髙野雅夫は髙野雅夫でなくなる。そんな場面を何度もかいくぐってきた人が髙野雅夫といえる。かつて「髙野さんはいつも同じことを言っている。前に聞いた話」と吐き捨てるように言った夜間中学教員がいる。時間が経過し、人替わり、当事者でないとわかりにくい場面がある。しかし、天王寺・文の里夜間中学廃校反対の闘いがとりくめない状況が生じたのは、髙野さんの指摘に耳を貸さず、妥協を重ね、教育基本法の改悪を許してきた私たちにあるのではないか。11/29に行う髙野雅夫さんの追悼のつどいに発行する小冊子には関係者から髙野さんの思想的背景を分析した貴重な文章が寄せられている。
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