夜間中学その日その日 (488) Journalist World ジャーナリスト・ワールド
- アリ通信編集委員会
- 2017年3月22日
- 読了時間: 3分
夜間中学の卒業式
日本では3月は卒業の季節である。日ごと、木々の色が変化を見せ、近づいて見ると、枝先に薄緑の新芽が出てきている。つぼみも大きくなり、はじけ始めている。遠くから見れば、山全体がこの季節特有の変化をしてきている。起きろ、時は止まっていないぞと叫んでいるようだ。卒業を前に、学校現場は特に忙しさを増す。カレンダーを眺め、日程の調整を繰り返し、とても木々の色の変化をゆっくりと確かめる余裕がないのが現実である。
夜間中学の卒業式は昼の子どもたちと合同の卒業式を行う夜間中学と別々に卒業式を行う学校とがある。合同で行うことのメリットは確かにある。しかし、昼の時間帯に参加できない夜間中学の卒業生、在校生が多い現状の中で、卒業式をもう一度夜の時間帯で行うなど、様々な条件の中で、関西では別々に行う夜間中学がほとんどではないか。
卒業式は「最後の授業」として、夜間中学生が夜間中学の学びを自分の言葉で発表する場として、またその場に立ち会ったものは、夜間中学が持っている「力」を考えることができる重要な機会である。夜間中学の1年間の活動を映像で振り返り、そのあと在校生、卒業生の発表がある。
ある夜間中学生の語った言葉の中に「学ぶたびくやしく、学ぶたびうれしく」がある。どの夜間中学生にも共通する想いである。これは、守口夜間中学が出版した本の書名にも採用されている。「学ぶたびくやしく」が過去であるとすると、夜間中学で学んでいる現在は「学ぶたびうれしく」であろう。あるいは、過去と今が「学ぶたびくやしく、学ぶたびうれしく」かもしれない。では、夜間中学の学びの中から、次に続く夜間中学生のコトバは?それを聞いた私は、参加者はどのように受け取り、どう考えるのかが問われているのが夜間中学の卒業式だと考える。「卒業おめでとうございます」だけではないのだ。一人の夜間中学生は次のように語った。
「(前略)夜間中学では義務教育の基礎の学びをとりもどすことができました。授業や生徒会活動、交流など、さまざまな学校生活を通して、以前ならあきらめていたことを最後までやりきりたい、おかしいと思うことに行動する力がわいてきました。大きな声や笑いも出るようになり、心が豊かになったと感じます。この4年半の学びはかけがえのないものです。(以下略)」
教育の世界では「教育と運動」を分離して、「ここは教育の場です。運動をされるのなら別のところで」とする言を述べる人が最近、多くなってきた。はたしてそうだろうか。
自分は夜間中学に到着し、遅くなったが、学ぶことができた。自分が学ぶことができたのは、夜間中学を作り、育ててきた先輩があったからだ。学びを必要とする人たちは私たちの周りに、まだたくさんいる。その人たちに夜間中学を届けるために、このとりくみをする。このように語り、当時の橋下知事が廃止した、就学援助・補食給食の府負担継続を求める闘いに立ちあがった。

戦火の中、逃げまどい、親を殺され、義務教育を奪われ、自分たちと同じ人生を送る人を作る戦争に、平和憲法を持つ日本が、自衛隊を派遣させることは反対だと夜間中学生は生徒会として立ちあがった。
このとき夜間中学教員はどの立ち位置に立つのか?
毎日の学びの中で、「学びは運動につながり、運動は学びを育てる」を追求する。この想いは学齢時の奪われた学びを奪い返す営みの夜間中学だからこそ重みを増す。
卒業生のコトバを思い起こしながら、「教師は学習者であり、学習者は自分では気づかないが教師である」。ジョン・デューイが著作『教育における思考』で述べていた言葉が浮かんできた。