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夜間中学その日その日 (499)     アリ通信編集委員会 Journalist World ジャーナリスト・ワールド

  • アリ通信編集委員会
  • 2017年6月30日
  • 読了時間: 3分

大阪に夜間中学を作らせる闘い(2)

「大阪214日間のとりくみ」の読み込みを続ける。大阪で開設運動を始めて約2ヶ月が過ぎた、1968年12月17日の「わらじ通信」を例に、その日の髙野さんの行動を書くと次のようになる

① 釜ケ崎の宿舎を出て、まず上本町の大阪教職員組合(大教組) を訪れ、ビラ作成の依頼をする。

② 部落解放同盟大阪府本部(桃谷)を訪ねている。しかし相手のひとは不在、対応したひとと、夜間中学について話し込みをやっている。

③ 淀屋橋の大阪市役所の教育委員会事務局を訪ね、広報課と話込みを行い。

④ 天満橋の大阪府教委を訪ねるが、担当者は不在であった。次に

⑤ 関西テレビ(大阪市北区)でディレクターの川村に面会を申し込むが、不在。

⑥ 新大阪駅で東京放送の新井和子ディレクター(「浮浪児マサの復讐」)を出迎え、神戸の湊川高校に向かう。

⑦ 湊川高校で対話集会を行う。

⑧ 釜ケ崎に戻ろうとするが、終電車で、京橋まで。そこから歩いて釜ケ崎に戻る(AM3:10)。

驚くような行動である。⑥と⑦は湊川高校、東京放送と事前の調整があったと考えられるが、それ以外はアポイントメントを取らず、動いたと考えられる。「浮浪児マサの復讐」の冒頭の髙野さんの演説シーンはこの日訪れた、湊川高校であったことが分かる。

「浮浪児マサの復讐」にはこの後、心斎橋筋の街頭でビラ配り。大教組で五島庸一教文部長との面談。大阪市役所玄関での新井ディレクターとの同道取材をめぐってのやりとり等の場面が収録されているが。この日以後の取材である。

これを契機に大阪教職員組合が全面展開、大阪府、大阪市の包囲網を作り、教育委員会が夜間中学開設にむけたとりくみを促していく。歯車がかみ合い、舞台が大きく回転をはじめた。

大阪教職員組合も髙野さんとの協議を進め、夜間中学の教育条件、教育環境を整えるため、髙野さんの母校・荒川九中夜間中学を訪問し、話合いをすすめるなど、制度設計のさまざまな提案を行っていった。

頑なに開設を拒む行政が開設に動き出すその過程は「わらじ通信」からは部分的にしか読み取れない。国が開設することに正反対の「廃止」とする情勢下、地方行政が開設する方針決定をするには、国の補助はない。全部自前で運営費を賄う必要がある。しかし「義務教育未修了者の恵まれない人びとを救うという慈恵的な考え方ではなく、憲法で規定されている教育の権利を保障するのだという権利思想」に道理がある。応えなければと大阪府や大阪市が判断した。50年後の現在とは正反対だ。

大阪に夜間中学を開設する、そこにはどんなとりくみがあったのか。夜間中学関係者はいま開設されている各夜間中学が開校することができたその経緯を学び直し、夜間中学生に向き合うべきではないだろうか。それらを切り離して、夜間中学の今はない。

 
 
 
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