夜間中学その日その日 (508) Journalist World ジャーナリスト・ワールド
- 白井善吾
- 2017年9月9日
- 読了時間: 4分
夜間中学の明日への展望をどう描くか(1)
教育機会確保法が公布・施行され、法に基づき、文部科学省は基本指針を策定し、「最低一県に一校の夜間中学を」とのかけ声である。この8月、初等中等教育局主催で都道府県、政令指定都市の教育委員会、夜間中学設置市区教育担当者の出席を求め、夜間中学説明会を東京、大阪の会場でひらいた。
「策定した基本指針、夜間中学等の活動実態の説明会を実施(し、これ)を通じた広報活動」「夜間中学の設置促進及び国民の理解の増進」を目的に掲げている。戦後一貫して夜間中学に対し、冷遇視を貫き、「見て見ぬふり」をしてきた国、政府、文科省のこの変化を夜間中学が歩んできたあゆみをみたとき、この動きは「夜間中学の最大の危機」をもたらす問題を内包していると考える。その点から夜間中学がとってきた視座を記しておきたい。
1947年、戦後の新しい学制がスタートした。直後から不就学の実態に教育現場は看過できなかった。現場の教員や関係者は学齢の不就学の人を対象に学びの場を設けた。夕間学級、夜間学級、二部と呼ばれ、戦後の夜間中学の出発であった。ここには学齢を過ぎた人たちも学びを求めて通った。この人たちを断る理由もないし、断れなかった。
これをみる国の視点は異なっていた。学齢を超えた人たちに義務教育を保障する義務は国にはない。悪いのは教育を受けなかった本人、そして親だとする考えであった。国は学齢者を過ぎた人たちのことは眼中になかった。1966年行政管理庁は夜間中学を早期に廃止するようにとの勧告をだした。この勧告を受け、地方教育行政は夜間中学を廃止する方向に動き始めた。
この廃止勧告が出たとき、夜間中学卒業生・髙野雅夫は“恩師”塚原雄太に相談している。廃止勧告をどう思うかと問かけ、塚原さんは「どうって、俺たち公務員だからな」と答えたと著書で紹介している(『夜間中学生タカノマサオ』56頁)。そこで髙野さんは「先生、カメラを回してください。オレが声をとるから」と提案、証言映画『夜間中学生』の制作が始まった。
このように勧告に反対する動きは夜間中学生の側から始まった。この勧告に対峙する考えは「憲法が保障している学習権は年齢に関係ない。学齢を過ぎた、学べなかった人たちにも保障された基本的人権」である。夜間中学卒業生・髙野雅夫を中心に展開した夜間中学開設運動はこの考えを明確に打ち出した。

写真:高山)
青森、北海道、岡山、京都そして大阪へ、髙野さんは夜間中学開設を求めて教育委員会、教職員組合、市民団体にねばり強く働きかけを行った。当初、大阪の行政担当者は「大阪では同和教育や民族教育をちゃんとやっているからそんな子はいない」と歯牙にもかけなかったという。
学齢を超えた人たちの学習権(当時は「教育権」と呼ぶことが多かった)を保障することは、そんなに重要視していなかったと考えられる。髙野さんの問いかけに対し、続けて「夜間中学をつくってほしいという市民の声はひとつもありませんよ」と返している。
髙野さんは義務教育未修了で夜間中学入学を求める人を見つけ出す運動に力点を置いた。証言映画「夜間中学生」を上映し学習者の本当の姿を映し出し、ビラを配り、夜間中学の必要性を訴えた。
憲法で規定している教育を受ける権利を保障させるという権利思想を打ち出した。その点からも、学齢超過者の学びを再び取り上げる廃止勧告は認めることはできないとする夜間中学開設運動であった。
この主張は地方教育行政には受け入れられることとなった。国の夜間中学早期廃止勧告があるにも関わらず、大阪府、大阪市は夜間中学を開設した。天王寺夜間中学1期卒業生が呼びかけてできた市民組織、「夜間中学を育てる会」が夜間中学開設運動を展開、廃止勧告を受け、学校数を21校まで減らした夜間中学も増加に転じた。
36回夜間中学増設運動全国交流集会(2017.8)に参加した前川喜平 前文部科学省事務次官は行政管理庁が勧告をだしたとき、夜間中学は風前の灯であった。そのとき、映画『夜間中学生』つくって髙野雅夫さんの全国行脚の開設運動があったから、今日があると語っている。
夜間中学の明日を考えるとき、「教育と運動」がキーワードでないだろうか。「公務員だからな」と突き放して答えた塚原さんの発言は、「夜間中学生!自立せよ」というメーセージではなかったかと考える。まず当事者が立ち上がる。そこから支援の動きが生まれてくる。「夜間中学育てる会」設立の動きも同じだ。教育と運動は身土不二だ。