「沖縄通信」第129号(2017年12月)<沖縄>をめぐって、いかなる立ち位置に立つのか、今、ヤマトンチュが問われている Journalist World ジャーナリスト・ワールド
- 西浜 楢和
- 2017年12月4日
- 読了時間: 10分
幻の屋良「建議書」は、どこまで実現を見たか(その3)
5. 「二、基本的要求」(三)沖縄開発と開発三法案について
(三)沖縄開発と開発三法案に論を進める。沖縄振興開発特別措置法案と沖縄開発金融公庫法案、それに沖縄開発庁設置法案を総称して開発三法案と呼ぶ。『建議書』はこの開発三法案の問題点に言及しているが、その前に琉球政府が掲げる沖縄開発の基本理念を見ておこう。
沖縄開発…の第一の理念は、県民の福祉の向上にあります。…本土の轍を踏むことなく、あくまで人間主体の開発でなければなりません。
沖縄開発の第二の理念は、自治権尊重の立場に立った開発でなければなりません。
沖縄開発の第三の理念は、平和で豊かな県づくりを志向するものでなければなりません。…基地の撤去を前提としない限り、真の意味で恒久的な開発計画の策定は不可能であり、自由かつ平和な社会の建設などは到底望めません。(『同上』38~39ページ)
ここからも明らかなように、「基地の撤去を前提」と主張する琉球政府と「基地を前提」とする日本政府の間には埋めることのできない溝が存在している。
琉球政府は沖縄振興開発特別措置法案の問題点を以下のように指摘する。
計画の最終決定権は、総理大臣に委ねられております。…これでは、知事を通じて表明された県民の意見よりも中央の意向によって、すべてが決定されることになりかねません。(『同上』44ページ)
そして、沖縄開発庁設置法案の問題点については、以下のように述べている。
国の行政組織の上で類例のない総合事務局が沖縄に設置される…。沖縄県のような小さな地域にぼう大な国の機関が設置されると、沖縄の地方公共団体の自治、特に沖縄県の自治に重大な影響を与える…。地方自治の侵害は、…沖縄県民の最も忌避するところであります。(『同上』46ページ)
ここでもまた、沖縄県が危惧する如くその後の歴史は推移したのだった。1971年に沖縄振興開発特別措置法が制定され、1972年5月、沖縄開発庁が発足(その後、2001年1月に廃止、内閣府沖縄担当部局となる)した。その出先機関は沖縄総合事務局である。この特別措置法に基づき、沖縄振興開発計画が第1次(1972年度~1981年度)、第2次(1982年度~1991年度)、第3次(1992年度~2001年度)と実施された。沖縄の総合計画として米軍基地の整理・縮小は位置付けられているにもかかわらず、この計画では米軍基地の問題は一切取り上げられず、計画の策定及び推進主体である沖縄開発庁には基地から派生する問題を取り扱う部署も置かれていない。これは、結果として米軍基地の存続に貢献するという仕組みだといえるのではないか。 第3次計画(1992年度~2001年度)までは「本土との格差是正」や「償いの心」を全面に掲げ、基地とのリンク論を公然と主張することは憚られた。しかし、1997年から始まった島田懇談会事業(注:島田春雄慶応大学教授が座長を務めた米軍基地所在市町村に関する懇談会。背景には1995年の米海兵隊員による少女レイプ事件を契機に起こった反基地運動を抑えるために採られた緩和措置としての基地とリンクした振興策である。1997年度から2011年度まで843億円が21市町村に投入されたが、「箱モノ」行政が多く、維持・管理等のランニングコストで財政は硬直化し、地域の閉そく感は緩和されなかった。)や、2000年からの北部振興事業(注:北部地域の産業振興と定住条件の整備を目的としたもので、10年間で1,000億円の投入が計画された。2006年、守屋防衛事務次官は「基地受け入れを負担する自治体に対し、国が地域振興で対応するもの」と、北部振興策と普天間移設はセットと発言した。)などでは、国の政策への協力の度合いが補助金提供の根拠だと明示されるようになった。2007年の米軍基地再編交付金(注:基地を新たに受け入れたり、米軍機を受け入れ基地負担が増える自治体に対し、期間限定で支給される。44市町村に838億円を支給している。)ではリンクが公然と施策されるに至った。その後、沖縄振興開発特別措置法を廃止する代わりに2002年、「開発」を削除した沖縄振興特別措置法が制定され、これに基づき沖縄振興計画が2002年度~2011年度に実施された。そして2012年に改正法が成立・施行された。土岐直彦が宮城和宏の『沖縄経済論』を引用して、「沖縄における経済政策は純粋にそれ自体が重要な課題とされたことはなく、基地の安全保持という至上命題を確保するための“手段”として第二義的な意味合いしか付与されてこなかった」(『月刊琉球』2017年10月号20ページ)と述べているように、これら計画の最大の目的は、米軍基地の自由使用とその維持であるといっても過言ではない。こうした中央政府の政策は、地方自治体の「財政規律」の崩壊を招くという大きな問題を派生させる。基地に関連する新たな補助金に翻弄され、「自治とは補助金を取ってくることだ」との風潮が蔓延するようになる。補助金の実績確保や拡大が目標となり、住民の暮らしの改善に結びつくような社会的・経済的効果が軽視され、その結果、いくら投資しても経済は疲弊するという悪循環に陥っていく。このような環境の下にあって、名護市の事例は注目に値する。辺野古新基地建設に反対する名護市には、それ故に米軍基地再編交付金は交付されない。こうした下で、稲嶺市長が補助金、交付金に依存しない市政運営を目指している。基地とリンクされて、地方自治体では産業振興や経済の自立発展よりも、公共事業が極大化し財政依存的体質が深まった。この公共事業ですら、「沖縄県内に投下されたと見せながら、その実、本土企業が受注しているという例がかなり多い。2011年度の国発注県内公共工事を例に取ると、県内企業受注額は全体の57.5%、42.5%は県外企業もしくは県内外の共同企業体の受注である。…発展途上国への政府開発援助(ODA)とよく似た構図である」(『沖縄の米軍基地と沖縄経済』普久原均、『島嶼経済とコモンズ』51ページ所収、晃洋書房)というものである。その結果、沖縄にもたらされたものは、一人当たり県民所得(210万円、全国平均306万円)、高校進学率(96.42%、全国平均98.54%)がともに全国最下位、完全失業率(5.1%、全国平均3.4%)が全国トップという状況であり、それは1972年の「返還」以降今日2017年まで続いているのである。 6. 幻の『建議書』から『建白書』の提出へ ここまで『建議書』の中の、沖縄基地と自衛隊配備問題、沖縄開発と開発三法案という二つのテーマ、すなわち米軍(自衛隊)基地問題と沖縄振興策について見てきた。「三、具体的要求」については紙面の関係上触れることはできなかったが、『建議書』は何を訴え、それがどのように実現を見たのか、あるいは見なかったのかを分析するにあたってはこの二つのテーマが最重要だと考えた。日本政府が進める沖縄振興策は次のように整理することができよう。政府にとっての最大の目的は米軍基地の自由使用と安定的な維持である。この目的に抵触しない範囲内で可能となるか、その目的に従属するか、あるいはそれを支えるようにしか沖縄振興策は実現し得ないということである。また、米軍基地については、軍事は中央政府の専権事項だとして沖縄の要望には一顧だにしない姿勢で貫かれている。部分的な譲歩や計画の遅延が起こるのは、軍事計画に綻びが出かねないほどの島ぐるみの反基地運動が惹起した時に限られているということである。ここで二つのテーマだと述べたが、この二つのテーマは基地の島を強いられている沖縄であるが故に深くつながっていることは論を待たない。 さて、幻の『建議書』から41年を経た2013年1月、沖縄にある全41市町村長と全市町村議会議長の連名で『建白書』が日本政府に提出された。本文は以下の通りである。 我々は、2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。 にもかかわらず、日米両政府は、沖縄県民の総意を踏みにじり、県民大会からわずかひと月も経たない10月1日、オスプレイを強行配備した。 沖縄は、米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害をこうむり、1972年の復帰後だけでも、米軍人等の刑法犯罪件数が6,000件近くに上る。 沖縄県民は、米軍による事件・事故、騒音被害が後を絶たない状況であることを機会あるごとに申し上げ、政府も熟知しているはずである。 とくに米軍普天間基地は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている世界一危険な飛行場であり、日米両政府もそのことを認識しているはずである。 このような危険な飛行場に、開発段階から事故を繰り返し、多数にのぼる死者をだしている危険なオスプレイを配備することは、沖縄県民に対する「差別」以外なにものでもない。現に米本国やハワイにおいては、騒音に対する住民への考慮などにより訓練は中止されている。 沖縄ではすでに、配備された10月から11月の2ヶ月間の県・市町村による監視において300件超の安全確保違反が目視されている。日米合意は早くも破綻していると言わざるを得ない。 その上、普天間基地に今年7月までに米軍計画による残り12機の配備を行い、さらには2014年から2016年にかけて米空軍嘉手納基地に特殊作戦用離着陸輸送機CV22オスプレイの配備が明らかになった。言語道断である。 オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願ってきた。 この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権日本のあり方が問われている。 そして要求項目に①オスプレイの配備撤回、②米軍普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設の断念を掲げた。この『建白書』は、日本へ「併合」されて40年が経てもなお「祖国日本に復帰して」とか「日本の一員としてこの国の発展を共に願ってきた」というような祖国復帰幻想(願望)から抜け切れない弱点を孕んでいる。しかし、それ以上に注目すべきは、『建白書』提出前日におこなわれた銀座パレードに対し、「売国奴!」「日本から出て行け!」「中国の回し者!」との罵声が在特会(在日特権を許さない市民の会)等の右翼勢力から浴びせられたことである。これまでに幾度となくくり返し沖縄から上京して来た要請団に対し、東京都民(日本国民=ヤマトンチュ)は冷ややかな視線を投げ掛ける(=「無視」する)ことはあっても、こうした罵声を浴びせたことはかつてなかった。初めてのことだった。これは明らかに<沖縄>をめぐって本土(ヤマトゥ)での亀裂、分裂が始まっていることを明示している。言葉を変えれば、今まで「無視」して暮らしてきた(これた)<沖縄>を今後どのように「意識」するかは別として、「意識」せざるを得ない段階を迎えるということだ。一方、沖縄は、幻で終わることを強いられた『建議書』時において体験した屈辱と侮蔑を超え、その後41年間におよぶ民衆運動の幅広い蓄積を重ねて『建白書』へと進んだのである。『建議書』は一過性の出来事として終わったが、それが終止符ではなく、その実現を図るために個人加盟方式の恒常的な組織として、2014年7月に「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議」(略称「島ぐるみ会議」と呼ばれる)が結成された。(注:『建白書』と「島ぐるみ会議」については、筆者の論文『沖縄戦70年―自己決定権を希求する琉球と無恥なヤマトゥ』『共生社会研究』第11号、2016年を参照のこと)。前に、現在の沖縄が日本(ヤマトゥ)に注ぐ眼差しと自らの未来を見据える眼差しへとつながってきていると記したが、沖縄は祖国復帰幻想(願望)をその内部に残滓として残しながらも、ヤマトゥを冷静に対象化する途上にある。本土(=中央)政府による変わらぬ植民地支配とも表現し得る政策に対し、ここからの分離を選択しようとする時、本土に暮らすヤマトンチュ(日本人)の誰がこれを批判できるのだろう。それ故、沖縄はヤマトゥのみならずヤマトンチュ(日本人)をも対象化するのである。かくして、<沖縄>をめぐって、いかなる立ち位置に立つのか、今、ヤマトンチュが問われている。(了)