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夜間中学その日その日 (538)

  • アリ通信編集委員会
  • 2017年12月11日
  • 読了時間: 5分

特別展「夜間中学生展12.08」(21)

 人権週間のこの日、多数の来館者に特別展を見ていただいた。橋本市の女性会議、阪神高速道路、豊中市の水道局、高等技術専門学校に加え、香港の映画監督、大学研究者、夜間中学卒業生など300人を超えた。最初の来館者は、前川喜平さんら3名であった。

 午前10時の開館時刻前に、私たちが打ち合わせをしていた。その内容は、この日発売の岩波の『世界』に掲載された前川さんの論文「教育が『憲法の理想』を実現する-夜間中学という問いかけ-」の読み合わせを始めていたとき、前川さんが来館されたとの連絡が入った。

 私たちは次のくだりの部分を読んでいた。「・・・当時の行政管理庁-いまの総務省は、1966年文部省に対して夜間中学廃止の勧告を出しています。文部省も絶好の機会だと勧告を喜んで受け取ったことでしょう。全国の教育委員会に対して、夜間中学閉鎖の指導を始めようとしてしたわけです。ところが、これに反対した人たちがいた。夜間中学の学びを実践している生徒や先生たちが立ち上がって、存続・普及のための運動を始めたのです。ドキュメンタリー映画『夜間中学生』(1967年)が作られたのはこのときでした。荒川区立第九中学夜間学級を卒業した髙野雅夫さんが中心となって学校、また職場、家庭での在校生の姿を撮影した。・・・」

 来館の連絡を事務室にして、戻ってくると、髙野さんに挨拶をされているところであった。

 もう一度入口に戻っていただいて、順路に沿って進みながら説明をすることにした。一方的な説明はせず、対話をしながらすすめていった。2時間近くかかったであろうか。主な説明と会話を書いておく。

○行政管理庁の廃止勧告のくだりは、「学齢超過者の学習権をうばう勧告」であった。これに対して、荒川夜間中学全体で闘いに立ち上がった。証言映画『夜間中学生』です。

-「これが16ミリのフィルムですか?」

○夜間中学生の生活を綴った3人の詩が原点です。

○映画と文集を携え、全国行脚に出発。行く先々から、毎日母校宛てに書いた「わらじ通信」462枚。書いた文字は45万字、投函する前に控えをとっていること。すると90万字の字数に上ること。その精神力が、今日夜間中学が存在する背景にある。

-「そうです。このとりくみがなければ、夜間中学は存在していなかった」

○全国行脚ではさまざまな出逢いがあった。岡山で水平社宣言を紹介された。そこには「同情を憎み、矛盾に怒れ」と母校から卒業記念にもらった辞書に自身がサインをしたと同じ文言が宣言の中にあった。『吾々が夜間中学生であることを誇りうるときがきた』。水平社宣言が夜間中学開設運動を支えた思想的基盤であった。

○荒川夜間中学在校生、金同恒の強制送還阻止のとりくみ。金同恒からの手紙と大村収容所に送った髙野さんの手紙。京都の夜間中学を廃止し、通信課程を作る方針を出した京都市教育委員会へも働きかけをおこなった。

○1968年10月11日大阪に入るや、真っ先に大阪教職員組合を訪れ、取り組みを訴え、開設を訴えるビラを作成。桂米朝司会のテレビ番組「ハイ土曜日です」を見て、名乗り出た小林晃さんを神戸の夜間中学が入学を認めた経緯。

-「入学を判断したのは誰ですか?」

神戸丸山中学の玉本格校長さんです。

-「まず、校長さんが判断をし、神戸市の教育委員会がそれを認めたという順ですか」

そうです。

○全同教大会で御所市の清原さんが、奈良県から大阪の中学校に多数越境通学している実態を明らかにし、部落差別であると訴えた。これを契機に、越境をなくそうというとりくみを大阪府・大阪市あげて運動をおこなっていた。当時天王寺中学は52%の越境率であった。「しない させない 越境通学」のポスターに対し大阪市内から神戸市の夜間中学に通うを報じた、「越境かまいません」の毎日新聞記事の対比。テレビ番組と新聞記事が夜間中学開設運動を支えた事例。

○梅田の歩道橋でビラを配っていた髙野さんに出会し、勤め先を辞め、天王寺入学を決意した芦田さん。しかし大阪市の教育汚職で、開校が遅れた。その日偶然、同じ場所で髙野さんに出逢い、芦田さんの母は「本当に夜間中学ができるんですね」と髙野に確かめ、新しく勤める会社に挨拶に行く場面の写真です。

-「教育汚職?」

教育長が白浜で投身自殺。その関係で4月1日に天王寺夜間中学は開校できなかった。

○天王寺夜間中学に89人が入学した。義務教育を卒業していない人はこの大阪にはいないと言っていた教育委員会に対して、髙野さんは心の中で叫んだ「ざまぁ見やがれ」と。

-「ざまぁ見やがれ」と。

○開校して40日後、NHKテレビ「こんにちは奥さん」に生出演した7人の夜間中学生は、学ぶ喜びを語った。鈴木健二アナをしてマイクを動かすことができない、感動的な話を展開した。そんな力を持った人が夜間中学生であること。決して文字が読めない、書けない、気の毒な人ではない。夜間中学の教員はこのことを忘れてはいけない。是非この映像を見ていただきたい。

○最後に在日朝鮮人の高オモニが叫んだ。「(私は)1.2.3を日本語で言えない。だから、日本に来て国のオモニに一度も電話をかけていない。ごめんなさい。しかし、(私は)今、夜間中学で勉強している。必ず電話をかける、手紙もだします」と。この突然の出来事は思わぬ展開を生んだ。小学校を卒業してなくてもよい、高齢者でも学べる、国籍が日本でなくても入学できることがわかり、2学期、多数の入学希望者が天王寺夜間中学を訪れた。テレビ番組は重要だ。

○入学の挨拶の中で、髙野さんは「オレの任務はおわった。大阪の夜間中学のことは入学したみんなの任務だ」と語った。次の年、卒業した倉橋健三さんが髙野さんの提起に応えた。在校生、卒業生、一般市民による「夜間中学を育てる会」の結成を訴えた。夜間中学の増設、学習条件、学習環境の向上をめざして取り組みを開始した。

○第18回全国夜間中学校研究大会で古部さんと筑豊から大阪に来た、須堯さんが2年越しの要求、「形式卒業者の夜間中学入学を認めるよう」出席していた文部省の中島課長補佐に回答を求めた。

-「中島章夫さんですか?知っています」

○讀賣新聞記事掲載の写真、右端のマイクを持っている方が中島さんです。後に国会議員になられた方ですね

-「日本新党の国会議員です。中島さんとどんなやりとりだったんですか」

○長いやりとりの末、学びたい人は夜間中学で学んでもらってもよいと、入学を認める発言をしました。大会の記録は髙野さんの本『자립』に掲載されています。この大会の記録誌は発行されていません。それから文科省が形式卒業者の夜間中学入学を認める通知を出したのは44年後の2015年7月30日です。この通知文に多くの入学希望者を門前払いにしてきたという気持ちが表れた箇所はどこにもありません。

-「あまりにも遅い文書です」(つづく)

 
 
 
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