夜間中学その日その日 (569)
- 白井 善吾
- 2018年7月4日
- 読了時間: 4分
沖縄・読谷村のアトリエに金城実さんを訪ねる
大阪市住吉の解放会館の建物壁面いっぱいに展示されていた「解放へのオガリ」像(高さ12.3m・幅7m)がいくつかのパーツに分けられて、沖縄県読谷村の金城実さんのアトリエに着いていた。梱包の木箱に入れられたまま置かれている。金城さんが大阪の部落解放運動に託した像である。

つきあげた拳の親指はヒトの頭より大きい。サトウキビ畑の奥、緑の木々の中にアトリエがある。ここに大阪府教職員組合退職教職員の「9条を誇りにする会」会員52人が訪れた。2018年6月25日のことだ。
アトリエのまわりに展示されている作品を一通り案内説明した後、アトリエで金城さんは話し始めた。
金城さんが夜間中学教員にと声がかかったのは、当時南米からの帰国者が沖縄の故郷には帰れなく、大阪に住み、夜間中学に学ぶ夜間中学生が多く通っていた。「沖縄ことば」が話せる金城さんに声がかかったと話した。夜間中学に対する金城さんの当時の認識は「文字もかけない、えんぴつの持ち方もわからない人たちが学んでいる。そんな人たちを相手に・・」と告白した。
しかし、夜間中学生との出会いは、「部落解放運動へ必然の出会いとなり」、のちに住吉の解放会館に「解放へのオガリ」像制作のきっかけになったと語った。
障害を持った高橋栄一さんが文の里夜間中学に入学したとき、昼の学校の校門の扉は閉め、横の狭い門から出入りをしていた。その門で高橋さんが怪我をしてしまった。広い門を開けていたらそんなことは起きなかった。そんな扱いであった。当時の行政は夜間中学に理解がなかった。
金城さんは美術の授業で夜間中学生の共同作品として「夜間中学生の像」(天王寺夜間中学・1974年)と「オモニの像」(文の里夜間中学・1975年)を制作した。この二つの像は、現在も各夜間中学の校内に展示されている。
夜間中学生の共同作品作成の作業を通し、夜間中学生の問いかけに向き合い、「夜間中学生として誇りを持っていく姿」を「オレにとって、夜間中学生は私の先生だ」と語った。私もそうであった。日本の近現代史の生き証人が夜間中学生である。学ぶ人にまなぶ夜間中学。夜間中学生は学びを通して自分史を語り、綴りはじめる。その共同作業を通して、“教員”は学びに参加できる。
大阪に夜間中学が開設され、2019年6月5日で、満50年を迎える。半世紀だ。6月3日、天王寺夜間中学同窓会が開いたプレ50年の催しに参加して、話してきたことも金城さんは語った。
夜間中学開設運動に、大阪の教職員組合は教育運動としてとりくみ、参画した。金城さんの話が終わり、アトリエを去る私たちを見送る金城さんと熱い握手をした。
移動するバスの中で、古くから知己を得ている参加者から「満50年のとりくみの企画は進んでいますか?」「私たちにも声をかけてください、協力させてください」とのお話をいただいた。
金城さんの夜間中学を中心に据えた、歯切れのよい語りに背中を押され、夜の交流会では大阪の夜間中学は教職員組合の教育運動に支えられ、叱咤激励され歩んできた歴史がある。そのことを話した。自らを振りかえると、夜間中学に関わるきっかけは、1972年1月、第21次日教組全国教研(山梨)に参加、分科会で形式卒業者・古部さん、須堯さんが「先生らはきれい事ばっかし、私たちのような学校に来れなくなる生徒をつくり出しているということを知っているのか」厳しく告発する現場に遭遇したことが発端であった。
辺野古のゲート前では私よりも年上の人たちが、炎天下、座り込みの闘いに参加している人たちに出逢った。2008年の同じ日(6月27日)、炎天下、大阪中之島の大阪市庁舎横で橋下知事の暴挙を糾弾する集会を開き、拳を突上げた115名の夜間中学生の姿と重なりあった。
3日間、私たちを案内いただいた、沖縄県教組石川元平(元)委員長そして平安常清さんから、沖縄県の夜間中学の情勢と自主夜間中学のとりくみに、退職教職員も参画していることなどお話をいただいた。
沖縄フィールドワークは私自身の立ち位置を確認する機会であった。