夜間中学その日その日 (571)
- アリ通信編集委員会
- 2018年7月16日
- 読了時間: 4分
うどん学校
自主夜間中学のたち上げ、運営、公立夜間中学開設に向けての行政交渉、そして、夜間中学生募集活動を継続しながら、支援組織への情宣活動、自主夜間中学の活動とほんとうに多くの人々の関与と粘り強い取り組みがあって、今日の公立夜間中学があるんだと改めて想い馳せることのできる機会となった。
2018年7月14日、奈良市はぐくみセンターで「春日夜間中学校公立化40周年記念集会」 があった。露の新治(前川弘行)さん「うどん学校のおはなし」、パネルディスカッション「夜間中学公立化運動をふりかえって」では自主夜間中学「うどん学校」の参加メンバーから42年前のうどん学校の様子が語られた。

1975年12月、大阪府教育委員会は夜間中学の入学条件としてそれまでの「府内在住在勤」から「府内在住」に変更した。理由は「大阪府の学校だから大阪府民を優先的に入学する」からだという。当時、府内には奈良県在住の12人の夜間中学学生が在籍し、2名の入学希望者が、4月から入学できなくなることが危惧される状況であった。
この変更を認めないとするとりくみもあったと思うが、一方で奈良県内に夜間中学を開設しようと、とりくみが開始された。奈良在住の夜間中学教員であった岩井好子さんを先頭に奈良市西大寺の正強高校で自主夜間中学「うどん学校」のとりくみを始めた。
私は「初代の夜間中学のマエカワ」だと語り、会場の雰囲気を和らげた、噺家の露のさんは「行き場のない26歳の青年」がうどん学校で学習者と向き合う中で、将来噺家として人生を切り開くことを決意したのは夜間中学生が露のさんいに言い返した「今のあなたにとって、今が一番若い」のコトバであった。教師は「人を導き教える立場のもの」だと勘違いをしていた。生徒に発した言葉を「自分には問いかけていなかった」。そのことを教えられた。教師としてかかわったうどん学校は「私にとって学びの場であった」。夜間中学生は、「戦争のむごさ、差別のむごさ」が共通で貧困・戦争・差別の被害者が夜間中学生だ。うどん学校で学んで、戦争と差別を許したらアカン。ぶれることなく噺家人生を送ることができた。と語った。
うどん学校から、春日夜間中学で学んだ飯野さんは、形式卒業の状態で大阪貝塚の紡績工場に就職した。結婚後「子どもに字を質問されても答えられなかった」。夫は天王寺夜間中学で学んでいた。奈良から入学はできなかったので、33歳のとき、うどん学校で学び始めた。「うどん学校で人生が拓けた」。夜間中学卒業生と書いて議員に立候補、女性の立場で4期16年、町会議員を務めることができたと話した。
うどん学校の公立化にかかわることができた、市原(当時奈良市会議員)さんは奈良に住んで間もない時、選挙に立候補することになった。奈良在住の 大阪の教職員組合の〝女傑″岩井、遠藤、岡田の3人に挨拶に行ったとき、「あんた夜間中学やってよ」といわれたことがきっかけであった。「学校は地域に開かれた学校であるだろうか?もっとオープンであってほしかった。公立化すると何かがなくなる」と語った。
会場から発言した川瀬(当時奈良新聞記者)さんはうどん学校から春日夜間中学の開設へ、多くの取材を行い、報道を行った。取材しながら、いつのまにかうどん学校の先生になっていることが多かったという。その川瀬さん、「奈良市役所の記者クラブで夜間中学を知ることになった。それから42年、天王寺夜間中学は来年で50年を迎える。そのあゆみと〝原点″を明らかにする、とりくみが進められている。うどん学校は『学びたい』という願いに応える先生が運動と一体化して進めてきた。この時代が持っていた熱気が背景としてある。今、学校の先生が運動に参加したらアカンとする動きが起こってきているという。メディアの変化も大きい。多くの情報を処理し、取材の人数も減らされている」と語った。
「公立化して学校教育制度の枠に入っても自主夜間中学のよさをいかに持ち続けられるか」ということが重要であると公立夜間中学誕生にかかわった4人の発言者が共通して語りかけていると私は受け取った。市原さんの言った「公立化すると何がなくなるのか」という問いかけがそれだ。
露のさんは「残念ながら世の中は『戦争と差別の時代』に逆戻りしそうな風潮です。だからこそ、夜間中学の営みは貴重なのです。生きづらさを抱えている人たちが力を合わせて戦争と差別に反対し、だれもが笑顔で暮らせる世の中に近づけるためにも夜間中学はますますその存在を高めています」。
夜間中学がはたす役割を確認することができる集会であった。