「沖縄通信」第132号(2018年12月)
- 西浜 楢和
- 2018年12月17日
- 読了時間: 24分
「沖縄通信」第132号(2018年12月
沖縄にみる性暴力と軍事主義
なぜ、米軍基地建設が続くのか、なぜ、米軍の暴力が続くのか
去る10月26日、「関西・沖縄戦を考える会」(ぼくは会の世話人を務めています)は、「オール沖縄会議」共同代表であり、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の共同代表でもある高里鈴代さんをお招きし、「沖縄にみる性暴力と軍事主義」の講演会を開きました。この日、ぼくは司会を担当しました。
以下はそのレポートで、文責はすべて西浜にあります。
・はじめに 2018年知事選を振り返って高里鈴代さん(その1)知事選の前には、どんなに基礎票を計算したって今度は無理だという、メディアの人たちもかなりそういう意見でした。そういう厳しい状況の中で8万という大差で勝つことが出来ました。この結果はどこから来たのだろうかと…。それは「辺野古NO!」というみんなの想いが沖縄の隅々にまで野火のように広がっていった結果だったと思います。政党にも属さない、各地域の「島ぐるみ会議」に結集する人びとが辺野古に通いながら、それぞれの地域の「島ぐるみ」として徹底的に選挙で奔走した、このような「辺野古NO!」の運動の蓄積の結果だと誇らしく思いました。名護市長選挙の落胆と失望から、今回はもう無理じゃないかという無力感が少なからぬ人びとの中にあったと思います。それを撥ね除けることが出来たのは一人一人の深い想いと行動だったのではないか。知事選直後も豊見城市長選、那覇市長選と続き、みんなへとへとに疲れていましたが、どちらも落としてはならないという強い気持ちで老体に鞭打ちながら頑張ってきました。改めて、沖縄の人々の中にある深い想いが今回

は大きく一つになって噴き出してきたのではないかという思いです。アメリカの外交委員会の中には今回の知事選の結果について、4年前に続き二期続いてこれほどまでに新基地反対の明確な結果が出たことで、見直しさえ必要なのではないかと発言する人が現れています。ところで安倍政権は、那覇市長選はあきらめたのでしょうか?那覇市民の反発を買うのは承知の上で、那覇市長選投票日前に国交大臣に埋め立て承認撤回の効力をなくすための申し立てをしました。安倍政権は二期連続の知事選結果にもかかわらず、意固地に「辺野古が唯一」というばかりです。選挙で勝ったとはいえ厳しい状況が続きますが、これまで通り辺野古に集い、法的な面でも、また海外への訴えの面でも一層取り組みを強化して辺野古の問題を訴え続けていきます。
・沖縄戦ー米軍による占領
沖縄が地上戦になる1年前の1944年3月に、「陸軍第32軍」が創設されました。米軍が日本本土に上陸するのを防ぐため、沖縄が防波堤となって本土を守るために沖縄に創設されました。これまでなかった組織です。32軍を構成する部隊は、中国の山西省やシンガポールあるいは山梨県などからかき集めてきた兵隊たち、まさに戦争の最前線にいた部隊、これらを沖縄に転戦させて32軍は創設されたのです。
45年3月26日、慶良間諸島に米軍の最初の上陸があり、4月1日に沖縄島に上陸して3ヶ月間の猛爆撃が続き、6月23日に司令官の自決があり、日本軍の組織的戦闘は一応終結とはなっていますが、そのあとも9月7日の降伏文書の調印の日まで戦闘は続きました。
このようにまだ戦争が終わっていない砲弾の音がする中で、女性の身体が戦場のように踏み荒らされていきました。
・「沖縄・米兵による女性への性犯罪」年表
私たちは、『沖縄・米兵による女性への性犯罪』という年表をまとめました。まとめたきっかけは、95年の少女レイプ事件の時、アメリカの3大ネットワーク、イギリスのBBC、オーストラリアのABCなどから取材があり、「こんなひどい事例はこれまで何件ありますか」という質問が一様にありました。
96年、アメリカに沖縄の実情を伝えたいと思い、女性たちでピースキャラバンを組織して出かける時に、アメリカの市民に沖縄の現状を具体的に知らせるものを持っていこうと考えて、新聞にある米兵の事件を集めてそれを時系列に整理して持っていきました。それがこの「年表」の始まりです。96年2月なんですね。その時は4ページでした。
事件の結果を分析してみると、
〇 上陸直後から米兵は女性を銃やナイフで脅し犯す。
〇 2人ないし6人の集団で襲い強姦する。拉致して基地内の他の兵士に引き渡して集団で強姦する。(1947年3月、1948年9月)
〇 助けようとする家族、警察官が殺害されたり、重傷を負う。
〇 収容所、野戦病院、畑、道路、井戸、家族の面前、基地内などあらゆる場所で拉致強姦する。
〇 夕食をしている場所に土足で入ってきて、その場から娘を連れ去る。
〇 赤ちゃんを負ぶった女性が拉致され、強姦、殺害される。(1945年8月2件、1945年9月)
等々、無数にあるのです。
被害者は9ヶ月の乳児(1949年9月)から6歳(1955年9月)、9歳(1955年9月)を含めあらゆる年齢に及びます。強姦の結果たくさんの出産もありました。加害者は殆ど不処罰です。
・沖縄戦から続く性暴力ー証言・目撃談
『沖縄タイムス』に、次のような証言・目撃談が載っています。
1、野戦病院などに女性が入っていると襲ってくる兵士が多いので、衛生兵たちが野戦病院の周囲を警らしていた。にもかかわらずあっという間に米兵が入ってきて少女をレイプした。父親は娘を背負って黙って、テントから連れて帰った。
2、46年6月、北部の捕虜収容所。少年たち数人で週一回、収容所から山を越えた反対側にある駐屯地に食糧を盗みに行った。帰りは暗い山道で、米兵4人が道の
脇で女性一人を暴行する姿を目撃した。少年たちは見つかれば殺されると思い、木の陰で息をひそめるしかなかった。
6年前、この取材を受けた時、79歳になる医師の男性はこのような目撃証言を話したのは初めてだというので、妻や娘たちには聞かれたくないと言って、家から離れた場所で記者に話したということです。
3、48年、子どもたちが順番にジープに乗せてもらっていた時、米兵が13歳の少女一人だけを乗せ数時間連れ去り、強姦された。少女は泣いてその後何も言わなくなり学校にも来なくなった。証言女性は彼女が強姦されたということを知らなかった。ところが95年の米兵による少女レイプ事件糾弾集会の会場にその女性が来ていた。その姿を見た時、当時のことがよみがえってきたのです。
4、95年9月4日の事件が起こった時、思わず沖縄の多くの人は40年前のことをぱっと思い出したわけです。由美子ちゃんという6歳の女の子が拉致され強姦され殺された。由美子ちゃんはゴミダメのようなところに捨てられていた。手には強姦された場所の草がぎゅっと握りしめられていたのです。
5、戦争による家族離散や孤児の問題。沖縄は戦争で4分の1の人口を失いましたが、ほとんどが14、5歳から40代の男性が中心です。男性がいない母子家庭も多く、母親たちは戦後の生活を生き抜いてきました。また多くの子どもたちが孤児になった。親戚に預けられて世話になっていても、とても気まずい思いをしてきた。そうすると、子どもたちはふらふらと外に出る。そこに米兵が巧妙にだまして声をかけて、米兵相手の売春につなぐということも起こっていました。
6、 このような少女たちを集めた女子ホームがあった。そのホームで米兵に靴で雨戸ごとこじ開けられることがあり、危険な時には少女たちはお鍋などを鳴らしてみんな起きているという合図をして被害を防いだりしていた。
7、60代の男性の証言
自分の姉も幼い時に家に入り込んできた米兵に家族の目の前でレイプ被害に遭った。そのことを自分は知らないままに来た。お姉さんは小さい部屋に閉じこもっていたので、精神で病んでいたと自分(弟さん)は考えていた。10年前に母から「本当は違うんだよ、お姉さんの身に起きたことは本当はこうだったんだよ」と知らされた」と言う。
・集娼地区の発生
あまりにもすさまじい暴力の横行の中で、ついに女性たちを一部掻き集めて米兵相手の暴力の“受け皿”にするということが起こってきました。1950年9月に、嘉手納基地第二

ゲート前の一部を返還して、“八重島”という場所を造るという計画です。この時、婦連会長や牧師(沖縄キリスト教学院大学を創設した仲里朝章)、沖縄人民党(瀬長亀次郎)、青年たちなど「女性に対する人権侵害だ」と言って設置に反対した人たちもいましたが、こういう声もかき消されました。 当時、貧しい女性たちが基地の周囲に間借りをしていました。小さなお家(うち)でも1、2畳囲える部屋があれば、そこを女性たちに間借りさせるわけです。そうするとその間借り先に米兵たちが「恵子さん!由紀子さん!」と呼びながらやって来るのです。こういう青少年を守らなければならないということもあって、村長や保健所所長や警察署長らは“八重島”を認めざるを得なかったというのが当時の事情です。誰から誰を守ろうというのか?暴力の被害に遭う青少年を守ると言いながら、そのために別の誰かを差し出すことになるのです。 1980年代になって、次のような事実を知りました。コザ高校の社会科の授業の調査で、生徒たちが“私たちの街”を調べたものがあります。それによると、「コザの街にはパーマ屋さんとか家具屋さん、洋服屋や洋裁店、それにバーやホテルやレストランが並んでいます。」とあり、最後に「1950年、アメリカの将校から村長に米兵の遊び場を作ってくれとの申し入れがあった。村長も頻発する米兵の事件に頭を痛めていたところだったので承知した。柵の中の一部を開放してほしいと頼んだ。その開放された所が八重島である。
1950年9月、クリスマスを前に八重島は八重島は出来上がった。アメリカ兵にとっては何よりのクリスマスプレゼントであった。」とまとめられているのです。私はこれを読んで大変ショックを受けました。“八重島”とは何なのか?という深い洞察もなく、アメリカ兵を喜ばせるためのプレゼントになりました、とまとめられているのです。 50年6月から朝鮮戦争が始まり、沖縄は出撃基地となっていきます。戦場から帰ってきた米兵によるものすごい数の暴力が起こりました。米軍は広大な嘉手納基地、普天間基地を建設するのに金網で囲いを張って住民を追い払って基地を造っていました。米軍は基地から1マイル(1,500メートル)以内に建物の建設を禁止するという『布令』を出していましたので、そこは無人のベルトのようになっていました。ところが1950年2月にその『布令』が緩和されます。すると周辺の地域のリーダーたち-のちに立法院議長になったり、つい最近まで県議会議長であったりした方たち-は、ここを「緩衝地帯」にして、そこに女性たちを集めて米兵を受け入れる場所を造ろうと計画を立てたわけです。
その時に彼らが書いた記録に次のような記述があります。「防波堤といっても、障壁ではなく、一部の女性たちを利用することである。風紀を守り子女への強姦防止策として、住宅地域に散在する女性たちを1ヶ所に掻き集めて米兵の相手をさせ、同時に米兵の落とすドルの稼ぎ手にもなってもらうという二重の目的がこの計画には込められていた。」というのです。これがこの地域のリーダーの発想なのですね。
・新辻町ー基地周辺に売買春地域が形成される
そして、その場所に6つほどの施設が造られました。後に60数軒に増えていきました。それが那覇エアーベースのそばに出来た“新辻町”です。
那覇に450年続いたという辻遊郭がありました。この遊郭は第32軍が出来た頃、将校たちの接待・宴会の場でもありました。軍隊が中国からどんどんと移動して来るにつれて慰安婦の数が足りなくなって、32軍の副官が辻遊郭に乗り込み日本刀を抜いて、演説したというのです。「君たちに兵隊たちと同じように作業しろ!と言っているのではない、兵隊たちがしっかりと働けるように-戦えるように-、慰めてほしい。それをみんなにお願いしたい」というものです。それで遊郭の女性たち約500人が慰安婦になりました。この演説をそばで聞いていたというのが当時、憲兵隊隊長の山川泰邦さんだったのですが、実はこの方の孫が、今度の豊見城市の市長になりました-10月14日、オール沖縄の山川 仁氏(44歳)が初当選した-。この方は、戦後は立法院議員、議長にもなり、エッセイストだったのですね。彼がこの演説を克明に書いたエッセイがあり、このエッセイは慰安婦問題に取り組む私たちにとって「大事な資料」となっています。
(筆者注:山川泰邦 1908-1991)
1934年警察官となり、1944年那覇警察署副署長として学童、老幼婦女子の疎開に尽力した。戦後、1951年琉球警察学校校長、那覇市警察署長等を歴任。1953年琉球政府社会局長に就任し、福祉三法、労働三法、援護法などの実施に取り組んだ。1958年からは立法院議員に5期連続で当選し、1967年立法院議長を務めた。その後、1970年国政参加選挙(自由民主党公認)、1972年衆議院議員選挙(無所属)に出馬したが、落選した。
辻遊郭は戦争で焼け野原になります。その場所に52年12月、新しく料亭「松乃下」が出来ました。ここを経営する上原栄子さんが『辻の華』という自叙伝を書いています。それによると、「見渡す限り平らな瓦礫と、茫洋たる原野に変わった旧那覇の土地へ第一号の家として、松乃下は建てられた。1952年12月5日の開店の日、何千万坪も平坦になった旧那覇市の焼け野原、その一角の辻遊郭に、軍から連ねて来たバスや自家用車がぎっ
しりと並び、陸、海、空、海兵隊四軍の将官旗を立てた車が次々と到着するさまは壮観です。又吉那覇市長様とルイス准将殿からのお祝辞を受けました。」と誇らしげに書いています。

これは一体どういうことでしょうか?先ほどの「八重島は米軍へのクリスマスプレゼント」と表現したのと同じように、アメリカ社会にある軍事主義が沖縄に持ち込まれているのです。アメリカにある深い性差別が沖縄にも続いているのです。
これは一体どういうことでしょうか?先ほどの「八重島は米軍へのクリスマスプレゼント」と表現したのと同じように、アメリカ社会にある軍事主義が沖縄に持ち込まれているのです。アメリカにある深い性差別が沖縄にも続いているのです。
沖縄の遊郭は女性が主体となって経営していて、そこに何人ものジュリを抱えています。4歳ぐらいから売られてきた女の子に踊りや料理を教えながら、歌、三味線を教え一人前のジュリに育てる。そして15、6歳の一人前のジュリになって稼ぐようになったら、それまでかかった費用を返していかなければならない。代(だい)返(がえし)をしないといけない。一人前の抱え親になるまでずっとそれが続いていくのです。
新城正子サマーズさんの例を話します。彼女は『自由を求めて!正子・R・サマーズの生涯』という本の中で、「松乃下」の再興の時のことに触れています。アンマー(抱え親)たちは自分の養女だった者に残る借金の返済を迫りながら、米兵相手の仕事に戻るようにと奔走します。新城正子さんは父親に4歳で辻に身売りされてジュリ(尾類)となり、戦争中は日本軍の慰安婦を強いられます。戦後やっと、基地内の食堂に職を得て働いて、元抱え親のアンマーに借金を返済して自由を獲得するのです。「私はついに自由の身になった。重い鎖に繋がれた状態から解放されたような、その時の私の気持ちは、おそらく誰にも分からないだろう。ついに拘束から解き放たれた。」
(筆者注:その次に、正子・R・サマーズさんは以下のように記している。)
自由を獲得したということが、にわかには信じられなかった。耐え忍んできたすべてのことが、夢のようにも思えた。アンマーと別れた後、涙がとめどなく流れた。今では、あのベーコン油をためるのに協力してくれた人たちに感謝の気持ちでいっぱいだ。私はそれまで神について考えてもみなかったが、今ではイエスキリストに感謝している。
私は姉とともに両親の家に行き、アンマーに借金を返済したことを話した。父は黙り込み、一緒に喜んではくれなかった。お金を返済に使ったことに腹を立てていた。
翌日、実にすがすがしい気持ちで奥間ビーチに戻ることができた。私は辻にいた頃、二一歳までに遊廓の世界から出ると心に決め、波之上宮によくお参りに行った。二〇歳になる前に私を辻から助け出してくれたのはアメリカ軍だった。(『自由を求めて!正子・R・サマーズの生涯』P75)
戦争が終わって砲弾は止んだ。しかし軍隊が駐留している中での女性の生活がどういうものであったかということを彼女は本に記したのです。
・ベトナム戦争(1965年~1975年)と基地経済の中で

65年から74年まで年間米軍犯罪事件数として外務省がまとめた資料で、多くの女性たちが絞殺されていることが明らかになっています。ベトナム帰還兵はあのジャングルで戦い、九死に一生を生き延びてきて、基地の街に繰り出していきます。そして沖縄の女性が彼らの犠牲になっていきます。ベトナム帰還兵の性的攻撃の受け皿―基地周辺で米兵を相手に働く女性たちの中で、年間に1人乃至 4人の女性が絞め殺されています。当時、抗議集会を開くということは全くありませんでした。
復帰を前にした69年に琉球政府は初めて性産業調査をおこないました。その調査によって、約7,400人の女性たちが売春に従事しているという数値が出たのです。もし7,400人の女性たちが一晩に4人の客を取ったとすると一人5ドルですから、5ドル×4×7,400人×365日は約5,400万ドル。当時のサトウキビ産業(4,350万ドル)、パイナップル産業(1,700万ドル)を凌ぐ金額になったという。彼女たちは自分たちの前借金の返済と家族を養うためのドルを稼ぐ最前列に送り出されていたのです。
・売春防止法成立が遅れた理由は
復帰を前にして、69年、琉球政府は売春防止法が適用される前に性産業の実態調査をしました。その調査報告は次のように指摘しています。「①売春の禁止によって性犯罪は増加するであろう。②部屋を与えていた管理売春を禁止すると、ホテル、民家等を利用する売春が増加し、それに伴い、ポン引きとか暴力団の介入が予想され売春が潜在化する。③Aサイン業者(米軍衛生基準に合格した業者)の従業員に対する
米軍憲兵隊の性病検査義務が解消されることにより性病患者の増加が予想され、性病が民間でも増加する」。

つまり、誰から誰を守るのか?何が性暴力の根源として存在しているのかということを無くしていくのではなく、むしろ悪徳業者をはびこらせてはいけないとかという視点でまとめられています。
売春防止法は1970年6月5日に立法院議会で全会一致成立しましたが、実際の適用は「復帰」以後でした。委員会の委員長(大城真順)報告は、法成立の遅れを次のように指摘しています。「沖縄において売春防止法の制定は、これの必要性が叫ばれながら、これまで沖縄の特殊事情並びに琉球政府の財政難を理由に、その制定の日の目を見ず今日まで遅延していたことは誠に遺憾なことであります。」
女性の人権無視は甚だしいと書いていながら本音のところは何かと言うと、「特殊事情」つまり、米兵相手に女性を出さなければならない―暴力の受け皿、そしてもう一つは琉球政府の「財政難」。最前列で彼女たちが稼いでいる5ドル(2ドルが本人、3ドルがお店の取り分)への依存です。「性産業」が沖縄経済の根底を支えているという認識です。売春があることによってそれと関連した様々な事業が発生し経済が成り立っていたのです。
実は、売春防止法が成立した6月5日にもう一つの決議がなされました。
基地周辺に帯のように存在する売春宿で回していても、実際にはものすごい暴力が恒常的に起きていました。70年5月30日の白昼、下校途上の女子高校生が米兵に襲われ、瀕死の重傷を負うという凶悪な刺傷事件が発生し、その2日前にも出勤途上の女性に対する米兵による暴行未遂事件が発生していたのです。この事件に対して、「かかる暴力を絶対に許すことはできない」として、「①軍事裁判を公開し、裁判の結果及び執行状況を明らかにすること、②米軍人、軍属による犯罪の裁判及び捜査の管轄権を琉球政府に委譲すること、③米軍の責任の所在を明らかにし、軍紀を厳重に粛正すること、④被害者に対する公正な損害賠償をおこなうこと」という決議です。にもかかわらず、売春防止法の制定に関しての委員長報告は上記のようなものでした。
瀕死の重傷を負ったこの女性が通う高校の生徒会長が、3年生の山城博治でした。学校挙げて抗議の座り込みをし、やり過ぎて彼は退学処分になりました。彼もよくこの事例を出します。彼の分岐点にもなった大きな事件でした。

(筆者注:この事件を山城博治は次のように語っている。)
私が三年のときの後輩の女子生徒が、学校近くにあった海兵隊通信基地の
兵士に襲われて、それで抵抗して、身体中三ヵ所をナイフで刺されて、辛う
じて一命は取り留めたという事件が起こったんですね。それで学内に呼びか
けてグランドで抗議したり、みんなで基地に押しかけて、「凶悪事件許さない」
とかいうプラカードをみんなで持って抗議に行った。基地の中にみんなで石
を投げ込むみたいなことをやり、キャンプ瑞慶覧の裁判所まで傍聴に行きま
した。
(「当時の経験が、あなたの現在にやっぱりつながってくるわけだよね。」と
の新崎盛暉の問いに対して)まあ、それはもう。
(『けーし風』第77号(2012年12月)
「沖縄民衆運動の新しい地平を創ろう」P13~P14)
売春防止法の施行は2年遅れます。性暴力を受けて苦しんでいた人よりも社会全体の経済、あるいは青少年全体を守るという名目が優先されていて、決して女性に対するものではないということです。沖縄は、今も基地の島であることに変わりはなく、戦後73年目の今も女性に対する性暴力は続いています。
・「レクイエムー軍靴に踏まれ、砕かれていった 姉妹たちよ」について
95年は戦後50年という年(当時大田知事の時)でもあり、各市町村で沖縄戦の体験を振り返るという戦後50年の取り組みをしていました。 その年6月23日には「平和の礎」が完成しました。

一方で、戦後50年ということでアメリカの退役軍人協会を中心に、アメリカの兵隊たちがかつて戦い勝ち取ったところはどうなっているだろうかと訪問を始めたのです。退役軍人たちはノルマンディー、 フィリピン、太平洋諸島へとそれぞれの戦場に赴き、かつての戦友を弔ったりしたのです。
沖縄にも800人がやってきました。沖縄は今でも基地の島です。元軍人たちは多少の遠慮からか、沖縄に入って来るのにかつて沖縄戦の最中住民の家
々からアメリカに持ち帰っていた物を沖縄に返し始めたんです。位牌や写真など様々なものがあります。
そして『帰ってきた沖縄』というタイトルで、持ち帰っていた物を免罪符のようにして展示したのです。このような沖縄戦を戦った元兵隊たちが沖縄に帰って来るという状況の時、私たちは大変な怒りを覚えました。かつて米兵相手に働かざるを得なかった女性たちも怒りました。空港に行って入国拒否の横断幕を掲げようかと言って悩んでいました。その時まとめたものがこの「レクイエム」なのです。
「終戦から10年経って由美子ちゃん、ベトナム戦争の時、3人の米兵に輪姦され、その以後の人生を完全に奪われた21歳の良子さん(仮名)。」
「日本国家の罪として91年秋、故郷韓国に帰ることなく、那覇市でひっそりと亡くなったペ・ポンギさん。彼女と同じようにどれほどの女性が沖縄に連れられて来たか、源氏名でしか呼ばれず本名を呼ばれず、平和の礎は出来たけれど、礎に名前が記されない女性の声が聞こえるではないか。」
「礎の文字の行間に、源氏名ではなく、本名でしっかり覚えてほしいと求める声がする。このような犠牲は沖縄だけでなくて、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルワンダ、カンボジアでも起きている。」
「戦後50年、戦士たちが、いま返しにきたのは盗んだ『戦利品』。だが戦士たちがかつて奪ったたくさんのおんなたちの尊厳は、もはや返そうにも返せないではないか。」
「女性にとっては平和とは、軍隊・その構造的暴力が地上から完全に消えること、とはっきり言おう!そして、平和をつくりだすために共に行動しよう!なぜなら、従順と沈黙で女たちも同じく加害者の側でもあったのだから。」
このような思いをレクイエムとして書いたのです。そのレクイエムが6月22日に出来上がり、翌日の23日の集会(戦後50年・慰霊の日。「平和の礎」除幕)に持って行ったのです。
・北京女性会議の最中、沖縄で3米兵の少女レイプ事件が
ボスニア・へルツェゴビナにおける集団強姦、集団強制妊娠という女性への暴力があり、1993年の世界人権会議で「女性に対する暴力の撤廃に関する宣言」に「紛争下における女性に対する暴力は戦争犯罪である」という定義が出ました。1995年の北京行動綱領の中にもその文言が定義として加えられました。
紛争下における性暴力が「戦争犯罪」というのなら、沖縄は紛争下ではない、
植民地下でもない、戦争下でもない、れっきとした独立国の一地域である。それなのにこの沖縄の女性への暴力はいったい何なのか。長期にわたって外国軍隊が駐留することによる女性に対する暴力の問題がある。それで、私たちは行動綱領に「海外軍隊の長期駐留下によって生じる暴力」も「戦争犯罪に準ずるもの」ということを加えるべきだと総理府に

ファクスを送ったのです。しかし全く聞き入れられませんでした。
1995年、第4回世界女性会議が北京で開催されるということで、沖縄から71人の女性たちが参加し、沖縄での状況を共通の経験を強いられている女性たちと話し合うため、「軍隊・その構造的暴力と女性」というワークショップの準備をし、共同声明を発表しました。
北京から沖縄に帰って来た時、3米兵による少女レイプ事件を知りました
・負担軽減とは何か
辺野古、高江の問題があります。これは95年の少女レイプ事件に対する85,000人集まった怒りの声、無念の想いに、日米両政府がある意味揺さぶられた結果出てきたのがSACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意です。沖縄の負担を軽減しますと約束したのです。「沖縄の負担」、「負わせすぎている負担」、その負担を軽くしましょうと、そのために普天間の返還をしましょうということでした。それがいつの間にか辺野古移設にすり替えられてしまった。
95年の少女への暴力への怒りは少女だけのことではなく、それまで起こり続けてきた問題の長期にわたる集積されてきたものへの怒りなのです。
普天間を返します、北部訓練場の半分を返しますという「負担軽減」が、なぜ新たな基地建設に代わっていくのか。北部訓練場の過半を返還すると言いつつ、古いヘリパッドを別の場所に移し-移設するように移すのではなく-、オスプレイが離発着出来る、より強固なものにするのか。日米両政府は3人の米兵のレイプに沖縄が挙げた声を逆手に利用して、基地強化という今の状況が生み出されています。
・軍隊の本質ー構造的暴力
軍隊の本質は、軍隊の日々の訓練に現れているように殺傷や破壊や根深い性差別であり、人種主義であり、敵がい心です。
ベトナム戦争、イラク戦争に参加した米兵の中にPTSDで苦しんでいる兵士たちがいます。ドアの音が発砲の音のように聞こえて、寝ていた妻に手を懸けそうになったとか、娘の額に血が噴き出しているようなイメージが浮かんできて、思わず闇に向かって銃を発砲しそうになった。このようなことが軍隊を生み出している側にも起こっています。
ジョン・ミッチェルさんというイギリス人ジャーナリストが、情報公開請求によって公表してくれた『沖縄海兵隊研修資料』があります。海兵隊の新兵たちに対するオリエンテーション資料です。それには、「地元メディアの恣意的な報道が沖縄の世論に影響を与えている。」「日本は合意形成を重んじる国家だが物事を決める際、一部地域と折り合わない時もある。特に沖縄が妨げとなっている。」「多くの県民は軍用地料が唯一の収入源であり、基地の早期撤去を望んでいない。」「繁華街などにおける米軍人がらみの事件・事故の発生要因は、突発的な外人パワー(カリスマ効果)による許容範囲を超えた行動であり、外人パワーはそれだけで十分に人気がある。それをちょっとやり過ぎると事件になるので気を付けろ。」「日本の女性は米兵といっても、アメリカ人と言っただけで憧れの眼で見る。」とあります。沖縄にやってくる海兵隊の新兵たちのオリエンテーションがいかに差別的で人権尊重など全く教えていないかを示しています。
・今年、2018年のノーベル平和賞の意味
今年度のノーベル平和賞は、世界中の紛争下で起きている性暴力と闘う二人に授与されました。ムクウェゲ医師は紛争が続くコンゴ東部で、性的虐待やレイプの身体的・精神的傷に苦しむ女性らの支援に20年以上取り組んできました。ムラド氏は2014年にイスラム過激派組織「イスラム国」に拉致され、3ヶ月間性奴隷として拘束されたものの、逃げ出すことに成功し、以後性暴力をなくす闘いを継続しています。ノーベル賞委員会は、両氏が「自らの命を危険にさらしてまで、戦争犯罪と勇敢に闘い、犠牲者らの正義を果たそうとして尽力してきた」とたたえました。

紛争の中における暴力というのは、戦争の手段として強姦が武器として使われています。「被害にあった者が公の場に出て自分の身に起こったことを話すのは簡単なことではなかった。今やっとここに光があたったのです。」とムラドさんは語っています。
元日本軍「慰安婦」の韓国・朝鮮の女性たちが声を上げ始めて30年。沖縄で韓国・朝鮮の女性たちが掻き集められて、11万の日本の軍隊のための慰安婦にさせられていたのです。
ムラドさんに起きたことと同じことが、日本軍「慰安婦」の女性たちの身に起きていたのです。日本がそのことに対する責任も謝罪も十分にしないという中で、今回のノーベル平和賞が浮かび上がってきます。沖縄の出来事として、沈黙を強いられてきた一人一人の思いを恢復させるということが必要です。
・終わりにー真の安全・平和な社会に向けて
私たちは『沖縄・米兵による女性への性犯罪』という年表を作りました。年表を一人称で読む。「19百何年、何歳の女性が…」ではなくて、「私は何歳でした。私はこのように被害に遭いました。」と一人称で読み上げて、私たちは思い起こしをしています。改めて戦争につながる軍隊、軍事基地がどういうものであったかを知ること、今起こっていることを止めること、私は新たな軍事基地が出来ることをどうしても許せない。それはさらなる暴力につながっていくからです。「地位協定」の問題があります。基地との境界を示す「オレンジの線」は地位協定を表す「線」です。まさに不平等を表す「線」です。地位協定の見直しを米側が渋るのは、日本の法律の後進性にあるといわれています。守られるべきわが兵士(米国民)を日本の法律の下に渡すわけにはいかない、なぜなら日本では警察に連行されたら自白を強要され、弁護士にも会わせない、そんな遅れた司法の下にアメリカの国民を渡せないというのが理由だというのです。しかし、その不平等によって被害を受けているのは沖縄であり、沖縄の女性であり、沖縄の人びとであるわけです。これからも、私たち「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」は、真の安全・平和な社会の実現に向けてがんばっていきたいと思っています。