夜間中学その日その日 (596)
- 白井 善吾
- 2019年2月9日
- 読了時間: 4分
日教組教研の夜間中学生
第68次日教組教育研究全国集会(2019.02.01~03)が北九州市であった。特別分科会「すべての人に学びの場を―『夜間中学』のこれまでとこれから―」が設定された。
日教組組合員だけでなく、広く市民にも開かれた特別分科会の設定なので、新聞記事の切り抜きを手に、駆けつけたという、市民が「この会場でいいんですか」と息を弾ませながら尋ねられた方に出会った。200名を超える参加があったのではないか。
全体会場、特別分科会会場でも夜間中学のパネル展示があり、夜間中学への関心が高まったのではないだろうか。教研の基調の中にも夜間中学にも次のように記述があった。
「夜間中学について文部科学省は、各都道府県に1校は設置されるよう促進しているものの、まだまだ設置は進んでいません。不登校の子どもたちを別施設・別教育課程に分離・排除することがないように留意しながら、何らかの事情で学齢期に義務教育を十分に受けられなかった人たちの願いに応え、幅広い教育を行うなど、すべての学びの機会を確保しなければなりません」。
特別分科会は、福岡県の自主夜間中学の映像上映のあと第1部、〔夜間中学のとりくみ〕では夜間中学の歴史的な背景を添田祥史(福岡大)さんが報告し、夜間中学の動向を語った。これを受け、福岡県内でとり組まれている3校の自主夜間中学、城南中学「夜間学級」・穴生中学「夜間学級」・千代中学校自主夜間学級「よみかき教室」そして公立夜間中学、守口夜間中学の取り組みの報告があった。第2部では4カ所の夜間中学生5名が体験発表をし、問題提起をおこなった。これを受け、夜間中学の今後の方向性を探る議論が展開された。
5名の夜間中学生は50代以上の女性であった。どうして義務教育を受けることができなかったか、夜間中学にたどり着く、自分史を語り、夜間中学の学びを通して、どのように変ったか、そして夜間中学で何をとりくみ、活動しているかを報告した。説得力があり、多くの参加者の心に届く報告であった。
夜間中学生が日教組教組に参加して、発言したのは今回が初めてではない。47年前の20次(東京)、そして21次(山梨)の日教組教研に夜間中学生は参加し訴えている。20次では市民に送る夕べの集会で、「見城、ええ格好するな。格好のよいこというな」と豊島公会堂の壇上で報告する夜間中学教員・見城慶和(荒川九中)さんを批判し、見城さんの持ち時間内ということで発言を認められ、壇上で発言する写真が「자립(チャリップ:自立)」に収録されている。ゼッケンをつけた古部美江子さんを後ろから撮った写真だ。

手製のゼッケンは「九九もできないような中学卒業者をつくった教師は責任をとれ」と読める。髙野さんは著書の中で「教師たちであふれる会場はシーンと静まり帰り、コトバもなく重い沈黙が深く、深く、果てしなく続いた」とこの様子を伝えている。(『夜間中学生タカノマサオ』解放出版社 132頁)
21次教研の写真も収録されている。「先生たちの報告はきれいごとばかり、形式卒業生を毎年毎年作り出していることを自覚しているのか」。この夜間中学生の叫びは私の、耳に残っている。発言の機会を自らの力で奪い取った夜間中学生の発言は的を射ていた。会場はざわついたが、参加者の心に響く主張であった。聞いていた私は体か震え、歯が勝手にかちかちと鳴っていた。1972年1月の出来事だ。教員になって4年目の私は、この出来事がその後の人生に大きな影響を与えることになった。
68次教研での夜間中学生の発表は「先生たちの報告はきれいごとばかり、形式卒業生を毎年毎年作り出していることを自覚しているのか」との主張ではなかっただろうか。形式卒業者の人たちと真正面で向き合い、夜間中学で実践される学びは、すべての学校現場で実践する学びのはずだ。こんな学びができる現場を私たちの手で創ろうではないか。
次の日に参加した理科教育の分科会では「原発がつくり出した地域の断絶、家族の断絶、子どもの孤独。嘘で塗り固められた安全神話の崩壊がもたらした影響は余りにも大きい。人々をだまし続けた教育もその責任からのがれることはできない。『教員も生徒も同じ高さの目線から学びを共に創りあげていく』、夜間中学校の学びのあり方が再生の手がかりになるのかもしれない」との議論が展開されていた。